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【オリンピックと王政】17歳の明仁氏は「こんなつまらぬもの(原爆展)は見ない」と言った

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憲法 第一条
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、
この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。


改憲ということについて考えると、
憲法1条からして、どう考えても「変」である。
天皇が日本国の象徴でいいかどうか?
日本国民統合の象徴でいいかどうか?と問われたことも、
了承した覚えもないのに、
国民の総意ということになっている。
実際、憲法1条は、国民投票にかけたらどうなるのか?
少なくとも「日本国民の総意」でないことは、
証明されてしまうだろう。

日本の主権者は、天皇から国民になったが、
自分自身が主権者であるという意識で、
国の在り方について判断しようとするには、
日々、我々の代表である政治家を見張り、
情報を吟味し、不断の努力をしなければならない。
常に愚民政治に陥る危険性を孕み、
民主主義もなかなか大変だ。

戦前の天皇が本当の意味で主権者であったのかというと、
主権者としての責任は果たしていない。
天皇は、全く無責任だった。

天皇は、内外に大規模な被害を及ぼした
戦争犯罪の責任をとらないまま、
戦後も象徴天皇の座に居座り続けた。

憲法では、皇室典範は国会が定めるものとなり、
天皇の国会が定める国政への関与はできないはずであるが、
明仁天皇は生前退位メッセージという自らの政治的発議によって、
皇室典範を特例法という形の改正を突破し、
2020年の東京オリンピックでの
新天皇のお披露目の段取りを整えた。

日本のオリンピックは、いずれも復興五輪であり、
40年五輪が関東大震災からの復興、
64年五輪は戦災からの復興、
そして、2020年五輪は東日本大震災からの復興だと言われるが、
実際は、「福島原発事故隠し五輪」である。

2020年東京オリンピックは、
福島の悲しみを、歓喜しながら踏み潰す巨大な怪物のような祭典なのだ。
誘致に関する賄賂容疑で五輪委員会の会長が逮捕された
リオオリンピックと同じように、
東京オリンピックも、賄賂による不正な誘致工作が行われた可能性が高い。
そして、福島原発事故が収束していないことは、世界中が知っている。
その自覚に乏しいのは、当の日本だけという異様な状況だ。

戦争責任が問われていた裕仁天皇は、
64年五輪の開会宣言によって国際舞台に復帰したが、
2020年五輪では、浩宮が新天皇として開会宣言をする。

ここ数日、なぜか、20年も前の「長野オリンピック」の時の
天皇夫妻の画像を取り上げたツイートが、
トレンド入りしたりしている。
電通系の草の根工作の匂いがプンプンしはしないか。

くろさわ@makt93
皇后美智子様が人生初ウェーブに参加されたときの感想が可愛すぎる。
両陛下には譲位後も長生きしていただきたい。

午前6:45 · 2018年4月30日


オリンピックは、初めから
王と結びつけることによって、
効果絶大の 祝祭型 国民統合装置なのだ。
国民が歓声を上げなから揃って拳を振りかざす祭典の後には、
決まって、戦争がやってきた。

第一回のオリンピックは、1896年にギリシャで行われた。
当時のギリシャは、王政だった。
国王がいて王族がいた。
けれども、この王族たちは、ギリシャ人ではなくて
北欧から来た人たちだった。

トルコから独立したあとのギリシャは政情不安で、
ヨーロッパの列強がデンマークから王を連れてきて
寒村に過ぎなかったアテネを首都においたのである。

王族というものは、
何処から連れて来ても構わないものだったのであり、
王室は民衆と同じ民族ではない場合が多い。
王室が偉そうにしていられる根拠は実は何もないが、
民衆とは異なる民族だという特別意識から優越性をでっち上げる。
日本では、あまり知られていないが、
イギリスの王室はドイツ人である。
イギリス王室は英語を話せないドイツ人のハノーヴァー家である。


手塚治虫『火の鳥 黎明編』

日本も天皇は大陸からやってきたという「騎馬民族説」がある。
騎馬民族征服王朝説
東北ユーラシア系の騎馬民族(夫余系騎馬民族)が、
南朝鮮を支配(辰王朝)し、
やがて弁韓(三韓/馬韓・弁韓・辰韓)を基地として日本列島に入り、
4世紀後半から5世紀に大和地方の在来の王朝を支配、
ないし、それと合作して大和朝廷を立てたという説である。
手塚治虫の『火の鳥 黎明編』のモチーフとなった、
東大の考古学者・江上波夫の説である。
戦後しばらくは騎馬民族説まで含めて
天皇をどう理解するかについて歴史学者の間でも議論があった。

ギリシャのオリンピックでは、
マラソンでギリシャ人が優勝した。
スタジアムに入って来たところで皇太子が一緒に走り、
ギリシャ国民と外来のあまり人気のなかった王室が
勝利の歓喜の中で一体化した。

当時のフランスの若きジャーナリストの
シャルル・モーラスがこの場面を見て王都主義者になる。
フランスの20世紀の政治というのは、
彼が作ったアクション・フランセーズが極右の政治組織になって
反共和主義の運動として相当の影響力を持った。

シャルル・モーラスはフランス人でフランス革命の時に
王制を廃止いた国の人間であったが、
第一回オリンピックで、
外来の王族でもこれほど国民と一体化するのだという事を見て、
これからの時代は、国民を統合するのに、
もう一度 王政の復活を考えなければならないと
ドレフュス事件」に関わっていった。

ところが、オリンピックの翌年、
ギリシャはトルコと戦争をして惨敗するのである。

オリンピックというのは、全く平和には役立っていない。
平和の祭典とは言えないのである。
オリンピックは戦争を呼び込んでいる。
日露戦争、第一次世界大戦以降のことは言わずもがなである。

日本の場合は、オリンピックで
裕仁は手を振っているだけで、
円谷と一緒に走ることはあり得ないが、
1896年のアテネに類することは、
2020年の東京に起きる可能性がある。
次代の天皇は、今とは全く違う新しい
違和感のないヨーロッパ的なイメージを演出する可能性は大きい。
それをTVで映し出しアピールするのだ。
違和感なく親しみを感じさせ、
人々の心に浸透する天皇像をもって、
国民統合されることに、
敏感にどう抵抗していくのかということが、課題である。

そもそも、天皇が「象徴」とされたのは、
戦後の現憲法下であるかというと、そうではない。
松本清張の史実に基づいた小説『象徴の設計』にあるように、
象徴天皇が設計されたのは、戦後ではなく、明治である。
戦前は天皇は象徴ではなかったかというと、
どんな制限君主であっても王たる者は「象徴」の機能を果たすのであり、
戦前の天皇は、国家の主権者であるとともに、
「象徴」でもあったのである。

天皇夫妻が行なってきた
「象徴としての務め」とは、政治的活動ではないのかというと、
極めて偏った政治的活動であり、憲法違反なのである。
憲法4条1項では天皇の政治への関与は禁止されている。

最近の例で言えば、例えば2017年3月のベトナム訪問。
元残留日本兵の家族と天皇夫妻は面談している。
終戦時にフランス領インドシナのベトナムにいた日本軍は、
ほとんど戦闘せずに無傷だった。
この日本兵のうちの何人かがアジア主義の義勇兵としてベトナムに残り、
その後のベトナムの独立闘争に参加したのである。(インドシナ戦争)
このことは、もちろんベトナム戦争当時には決して語られていない。
占領中に日本軍は食糧徴発を行い、ベトナムに飢餓を引き起こして
200万ものベトナム人が死んでいる。にも関わらず、
対中包囲網の一環としてベトナムを引きつけておくために、
天皇夫妻がベトナムを訪問したのである。

直近では、2018年3月の与那国訪問。
2016年から与那国に陸自配備されたことが、
与那国の人々の間に分断を呼んでいる。
そこへ天皇夫妻が出掛けて行き、
まさに国民統合の務めを行なっているのである。

明仁天皇は、
被災地の慰問や 戦争被害者の慰霊の旅を重ねることで、
平和主義者のイメージを作りあげ、
とりわけ 独裁化する安倍政権と
民衆に寄り添う人権派天皇という
くっきりとしたコントラストの中で、天皇は株を上げた。

けれども、元々、皇太子時代の若き明仁氏は、
平和に対する感受性は鋭敏ではなかったようだ。

17歳の皇太子・明仁氏は、
東大で開催された『原爆展』を
「こんなつまらぬものは見ない」と言った
という。

特攻上がりで広島の呉で原爆のキノコ雲を実際に見た
戦争体験のある作家・城山三郎の
事実に基づいて書かれた小説『大義の末』の中には、
〜明仁皇太子が、東大五月祭を訪れ、
開催されていた『原爆展』を「こんなつまらぬものは見ない」と言った。
この明仁氏の言葉を聞いた友人が「全くけしからんよ!」と怒っている。
主人公は、これを聞いて脇腹を蹴られたような衝撃を受けた〜
という記述があるのだ。
おそらく、これは作家の実体験だろう。

『大義の末』の著者、城山三郎は、
戦時中、理工系学生であったため、徴兵猶予とされていたが、
志願して海軍に入隊した。
海軍特別幹部練習生として特攻隊である伏龍部隊に配属になり、
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、
広島と呉の間の基地(海軍砲術学校郷原分遣隊)で、
世界で初めて落とされた原子爆弾に遭いあのキノコ雲を見たのだ。
海軍の上層部からは、
「爆弾は光線を利用する爆弾だから、真っ白な服を着ろ、
 これであの爆弾は防げる」という通達があったという。
海軍と陸軍は反目し合っており、
広島は陸軍の都なので行く必要はないという海軍の判断で、
城山三郎は命拾いしたのである。

原爆文学 探査⑧
城山三郎『大義の末』坂口博
編集 原爆文学研究会
発行 (有)花書院

http://www.genbunken.net/kenkyu/08pdf/sakaguchi1.pdf

〜〜復員後、「東京都下T町」に所在する「旧制H高校」に進学した 柿見は、
昭和天皇を「天ちゃん」、皇后を「おふくろ」、
皇太子(現 在の天皇)をセガレと呼び捨てる先輩や友人たちに衝撃を受ける。
学園祭に皇太子が突然来校することになり、
左翼学生を中心に「セガレの来校を拒否しよう。セガレを入れるな。
赤旗で竹矢来をつくろう!」と呼びかける。
一九四九年当時の出来事である。
H高校を経て、柿見は京都K大へ、友人の森は東京T大へ進んでいた。
まず事件はT大五月祭で起こる。
小説時間では一九五〇年五月のこととなる。
原爆展をやってた。
その入口へ来てセガレが『こんなつまらぬものは見ない』と云ったんだ。
学園祭をはさんで市民に公開の予定であった原爆展は、
学生 たちが願い出ていた部屋の使用を拒否され、
予定通りの開催が できなくなった。
T大の原爆展で、皇太子は、つまらぬものは 見ないと云った。
森からそれを聞いて間もない今、
K大では天皇行幸のために原爆展そのものが開催できなくなったのだ。
皇太子と天皇の父子が原爆展を忌避することで
すっきり一筋に連らなったことが柿見には悲しかった。〜〜

原爆投下、キノコ雲の描写…
〜〜山峡の空気をふるわせてサイレンが鳴り出した。警戒警報である。
柿見と森は身をまるめ、ころげるように坂道を駈け下りて行った。
兵舎に飛びこんだとたん、雷が七つ八つ一時に落ちたような
青白い閃光、そして震動が来た。
西の方、広島方面の山の 肩に、白い雲が一つ浮いていた。
それは白金色に輝きながら 奔騰し、みるみる巨大な雲塊となって、
白く泡立つ両翼を空いっぱいにのばしていった。〜〜

しかし、世界で初めて投下されたヒロシマの原子爆弾が、
どれほどの惨事を齎したか、全く興味を示さず、
原爆展を「つまらんもの」と吐き捨てた明仁氏は、
その後、民間から美智子妃を迎え、89年、天皇に即位。
天皇制という国民統合装置の維持と発展の
中心的プレイヤーとして熟達していき、
完全に成熟した姿を国民に見せたのが、
生前退位の天皇メッセージなのだろう。
国民の90%が、天皇の意向を受け入れたのだから。
明仁天皇は、自らの発議によって皇室典範の改正に成功し、
2019年4月30日に天皇を退位し上皇となる。


*樋口陽一氏の「天皇賛美」に異議あり<上>
*樋口陽一氏の「天皇賛美」に異議あり<下>







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