『日本はなぜ「戦争ができる国」になったのか』
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http://www.shueisha-int.co.jp/pdfdata/0282/sensoudekirukuni.pdf
矢部宏治氏のベストセラー
『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』の続編
日本の戦後史に、これ以上の謎も闇も、もう存在しない。
この本には、日本国民のみなさんが知ったら、
卒倒しかねないことがたくさん書かれています。
しかし、それらはすべて、公文書にもとづく疑いようのない事実なのです。
なかでも驚かされるのは、
1950年6月の朝鮮戦争・勃発以来、アメリカの周到な計画のもとでむすばれた
数々の条約や協定が、わたしたち日本人の知らないあいだに、
次のような恐るべき密約を成立させていたという事実です。
戦争の脅威が生じたと米軍司令部が判断したときは、
すべての日本の軍隊は、アメリカ政府によって任命された
最高司令官の指揮のもとに置かれる。
これが本書のテーマである「指揮権密約」という、
アメリカがもつ巨大な法的権利の正体であり、
日本が負う巨大な法的義務の正体なのです。
***********
沖縄問題の研究者のみなさんから数々の
おどろくべき事実を教えてもらうようになりました。
(その多くは「条文」や「公文書」ですから、議論
の余地のない事実です)。
この「日米密約」の世界に一歩でも足を踏み入れてしまうと、
世のなかの出来事をみる目が、
すっかり変わってしまうことになるのです。
たとえば、昨年(2015年)
大きな社会問題となった、安保関連法についてです。
あのとき国会では、安倍内閣が提出した法案をめぐって、
普通の市民にはだれひとりフォローできないような
複雑で錯綜した議論が、約4カ月にわたっておこなわれました。
その代表的なひとつが、
「それは個別的自衛権だ」
「いや、集団的自衛権だ」
という国際法をめぐる、よくわからない議論だったと思います。
けれどもすでに
アメリカの公文書で確認されているひとつの密約の存在を知れば、
あのとき起きていた出来事の本質は、
あっけないほどかんたんに理解できるのです。
その密約の名は、「統一指揮権密約」といいます。
これはかんたんにいうと、
「戦争になったら、日本軍は米軍の指揮下に入る」
という密約のことです。
1952年7月と1954年2月に当時の吉田首相が
口頭でむすんだこの密約が、
その後の自衛隊の創設から
今回の安保関連法の成立にまでつながる、
日米の軍事的一体化の法的根拠となっているのです。
けれども、これまでそれは、あくまで日本とその周辺だけの話だった。
ところが、今後はそこから地域的なしばりをはずして、
戦争が必要と米軍司令部が判断したら、
自衛隊は世界中どこでも米軍の指揮下に入って戦えるようにする。
そのために必要な「国内法の整備」が、昨年ついにおこなわれてしまった。
それがあの安保関連法の本質だったということです。
私は今回、この「戦争になったら自衛隊は米軍の指揮下に入る」
という密約の行方を追いかけるうちに、
おそらくこれが日本の戦後史における「最後の秘密」だろうと思われる、
軍事面での「大きな構造」にたどりつくことができました。
これからそのことについて、
できるだけわかりやすくご説明していくつもりですが、
ひとつ先に申しあげておかなければならないのは、
本書でこのあとその「最後の秘密」にまで話が及んだとき、
みなさんの目の前にあらわれるのは
非常にきびしい日本の現実だということです。
なぜならそこでは日本の現状が、
いままで私が本に書いてきたような、
「占領体制の継続」
ではなく、それよりさらに悪いものだということが、
公文書によって完全に証明されてしまうからです。
私の前の本(『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』)
を読んでくださったみなさんはよくご存じだと思いますが、
東京を中心とした首都圏(一都八県)の上空は、
すっぽりと米軍の管理空域になっていて、
日本の民間航空機はそこを飛ぶことができないんです。
(中略)この巨大な空域は、
東京郊外にある米軍・横田基地によって管理されているため、
「横田空域」とよばれています。
(中略)軍用機で日本上空まで飛んできた米軍やアメリカ政府の関係者たちは、
この空域をとおって、日本の政府がまったく知らないうちに
横田基地や横須賀基地などに着陸し、
そのままフェンスの外に出ることができるのです。
この事実がもつほんとうの意味を教えてくれたのは、
沖縄国際大学教授の前泊博盛さん(元「琉球新報」論説委員長)でした。
前泊さんは、つまりそれは、
「日本には国境がないということなんですよ」
と、私に教えてくれたわけです。
実際、米軍になんらかのつながりのある関係者なら、
日本への入国はまったくのフリーパスで、なんのチェックもない。
(中略)
国家という概念を成立させる三つの要素とは、
「国民」「領域(領土)」「主権」だといわれています。
日本という国には、たしかにわれわれ日本人が住んでいますから、
国民はいる。
しかし事実上、国境がないわけですから、
領域(領土)という概念は成立していない。
また首都圏の上空が外国軍によって支配されているわけですから、
もちろん主権もない。
ですからこの時点でもう、日本は独立国家ではないという事実が、
ほとんど証明されてしまうんですね。
(中略)
この横田空域について、
「いつ、だれが、そんなめちゃくちゃな取り決めを結んだんだ」
という、まったくもってごもっともな質問への答は、つぎのようになります。
「この取り決めの内容は、1958年12月15日に、
米軍横田基地と東京航空交通管制部のあいだで合意されたものです」
「......はぁ?」
と思いますよね、だれだって。
「東京航空交通管制部ってなんなんだ。そんなもの聞いたことないぞ」
みなさん、すでにお怒りなのではないでしょうか。
お怒りはごもっともです。
しかし、もちろん、かれらが勝手にやったことではないのです。
そんな牧歌的な公園のなかにある国土交通省の一部局に、
そのようなどでかい仕事ができるわけありません。
かれらは国民の目にまったく見えないところで決められた
巨大な方針にしたがって、実務担当者としてプランを立て、
空域の境界線をさだめて、それに合意したにすぎないのです。
そうした信じられないほど巨大な方針を、
国民がまったく知らないうちに決めてしまう
「ウラの最高決定機関」。
それこそが、このあと何度も登場する「日米合同委員会」なのです。
私はこの組織を、コンラッドの有名な小説のタイトルを借りて、
日本の「闇の 奥 ハート・オブ・ダークネス」とよんでいます。
(中略)
この日米合同委員会こそは、
これまで日本の戦後史に無数の闇を生みだしてきた、
「密約製造マシーン」といえるのです。
注目していただきたいのは、
この日米合同委員会の組織図に書かれた日米の役職名です。
まず日本側の代表は外務省の北米局長、
アメリカ側の代表は在日米軍司令部副司令官となっています。
だから日本の官僚のなかでも、北米局長のポストは非常に権威があるわけです。
しかし、おかしいですよね。
どんな国でも外務官僚が協議をするのは、
相手国の外務官僚のはずです。
軍の司令官が協議をするのは、相手国の司令官のはず。
そして外務官僚どうしが合意した内容は、
もちろん軍の司令官の行動を制約する。
これが「シヴィリアン・コントロール
(=軍事に対する民主主義的コントロール)」とよばれる
民主主義国家の大原則のはずです。
それなのになぜ、東京のどまんなかにある米軍基地で、
外部に情報をほとんど公開することなく、
米軍の司令官と日本の外務官僚が
直接、秘密の交渉をつづけているのでしょう。
ここでもう一度、アメリカ側の中心メンバーのリストを見てください。
代表代理にひとりだけ、在日アメリカ大使館公使、つまり外交官が入っています。
しかし、それ以外はすべて軍人です。
ある部会の代表も、アメリカ側の役職名は書いてありませんが、
みんな軍人です。
一方、日本側は、
外務省、法務省、農水省、防衛省、財務省、総務省、経産省、国交省と、
ありとあらゆる省から局長クラスの超エリート官僚たちが送られてきています。
つまり、
この日米合同委員会というシステムがきわめて異常なのは、
日本の超エリート官僚が、アメリカの外務官僚や大使館員ではなく、
在日米軍のエリート軍人と直接協議するシステムに
なっているというところなのです。
この点についてはさすがにアメリカ側でも、
国防省(=防衛省)ではない国務省(=外務省)の関係者から
その異常さを指摘する声がなんどもあがっています。
(中略)こんなおかしなことはやめるべきだと
何度も主張する国務省に対し、
米軍側は、「いいんだよ。あいつら日本人が、それでいいっていってるんだから」
と、くり返しいっているわけです。
(中略)
さらに注目していただきたいのは、
日米合同委員会の日本側の代表代理の筆頭として、
法務省大臣官房長というポストが書かれていることです。
だからこのポストについたエリート法務官僚は、
みな基本的に「日米合同委員会」の中心メンバーになる。
そこで歴代の法務省の大臣官房長が、
その後どんなコースをたどったかを調べてみると、
なんとその多くが法務省のトップである事務次官をへて、検事総長になっている。
つまり
60年以上つづく、米軍と日本の官僚の共同体であるこの「日米合同委員会」が、
検事総長を出すという権力構造ができあがってしまっているのです。
(中略)
日本の支配層が伝統的にもつ反民主主義的な体質や、
アメリカの軍部から加えられる軍事的一体化への強いプレッシャー。
そうした圧倒的に不利な状況のなかで、なんとか抵抗をつづけ、
「権力者をしばる鎖」としての
立憲主義のリソース(=人的・時間的エネルギー)を、
憲法9条1項(戦争放棄)の理念に集中させてきた。
つまり憲法9条を、日本政府というよりも、
むしろその背後にいる米軍をしばる鎖として使ってきた。
そして米軍をしばることによって、
同時に日本の右派の動きもおさえこんできた。
おそらくそれが日本の戦後70年だったのだと思います。
しかし、その鎖は何年も前から周到に準備された計画のもと
再登場した、安倍晋三氏という政治的プレイヤーの手で、
すでに引きちぎられてしまいました。
その結果、大きな矛盾を内側にかかえながらも、
長い平和な暮らしと経済的な繁栄、
そして比較的平等な社会を半世紀以上にわたって実現した
「戦後日本」という政治体制は、
ついに終焉のときをむかえることになったのです。
(中略)今回、安保法案の審議のなかでみえてきた、
「指揮権」というジャンルの密約について調べていくうちに、
一見、大混乱のなかにあるようにみえる日米の密約も、
ふたつの大きなジャンルに分けることができること。
その分類にしたがって見ていくと、
問題がかなり整理されてくることがわかりました。
そのことについて、これからくわしくご説明したいと思います。
これまで日本とアメリカのあいだで結ばれてきた膨大な数の密約は、
そのほとんどが日米安保に関するもの、つまり軍事関係の取り決めでした。
それらは大きくいうと次のふたつのジャンルに分けることができます。
①米軍が日本の基地を自由につかうための密約(「基地権密約」)
②米軍が日本の軍隊を自由につかうための密約(「指揮権密約」)
第2次大戦で多くの戦死者をだし、
激しい戦いのすえに日本に勝利した米軍(=アメリカの軍部)は、
占領が終わったあとも、日本の国土を自分たちの基地として自由につかいたいと
いう欲求をもちつづけました。
それを実現するための密約が、①の「基地権密約」です。
加えて米軍は、日本が二度とアメリカの軍事的脅威にならないよう、
占領終結後も日本の「軍隊」を自分たちの指揮下におきつづけたい
という欲求をもちつづけました。
それを実現するための密約が、②の「指揮権密約」です。
(本書ではこのジャンルに、日本の再軍備に関する密約と、
日米の戦争協力や共同軍事行動に関する密約もふくまれるものとします)
(中略)
たとえ「戦争になったら、米軍の指揮下に入る」という
密約があったとしても、それが国内だけの話なら、
専守防衛という日本の方針とそれほど矛盾はないじゃないか。
長らくそう考えられてきたからです。
ところが安倍政権が成立させた昨年(2015年)
の安保関連法によって、状況は一変してしまいました。
もしこの「指揮権密約」をのこしたまま、
日本が海外で軍事行動をおこなうようになると、
「自衛隊が日本の防衛とはまったく関係のない場所で、
米軍の指示のもと、危険な軍事行動に従事させられる可能性」や、
「日本が自分でなにも決断しないうちに、戦争の当事国となる可能性」
が、飛躍的に高まってしまうからです。
(中略)「基地権密約」の問題について、
最重要文書のほとんどを発掘してきたのが「密約研究の父」であり、
また「日米密約研究」という研究ジャンルそのものの
創始者といってよい、国際問題研究家の新原昭治さんです。
新原さんの研究がすごいのは、
数多くの密約文書をみずから発掘しただけでなく、
その背後に「基地権(base right)」という概念が存在することに
早くから気づき、さらに米軍のもっているその「基地権」が、
二度の安保条約をへて、現在でも占領期とほとんど変わらないまま
維持されていることを、どんな反論も許さないほど
明確なかたちで証明してしまったところにあります。
~秘密文書①:1957年の極秘報告書
──1952年の独立後も、軍事占領は継続した~
まずひとつめの秘密文書が、「在日米軍基地に関する極秘報告書」です。
これは1957年2月14日に、
東京のアメリカ大使館からワシントンの国務省に送られた報告書で、
当時アイゼンハワー大統領によってつくられていた
「世界の米軍基地に関する極秘報告書(「ナッシュ報告書」)」のための
基礎資料として、日本のアメリカ大使館が作成したものでした。
①「日本国内におけるアメリカの軍事活動のおどろくべき特徴は、
その物理的な規模の大きさに加えて、
アメリカのもつ基ベース・ライト地権の範囲の広さにある。
②「(旧)安保条約の第3条にもとづく行政協定は、
アメリカが占領中にもっていた、軍事的活動を独自におこなうための
権限と権利を、アメリカのために大規模に保護している。
③「(旧)安保条約のもとでは、日本政府とのいかなる相談もなしに、
『極東における国際平和と安全の維持に貢献するため』という
理由で米軍をつかうことができる。
④「こうした〔基地の〕あり方は将来、
もしも在日米軍が戦争にまきこまれたときには、
日本からの報復を引きおこす原因となるだろう」
⑤「行政協定のもとでは、新しい基地についての条件を決める権利も、
現存する基地をもちつづける権利も、米軍の判断にゆだねられている。
⑥「それぞれの米軍基地についての基本合意に加え、
地域の主権と利益を侵害する数多くの補足的な取り決めが存在する。
⑦数もわからない、非常に多くのアメリカの諜報機関と
防諜機関のエージェントたちが、なんのさまたげもなく日本中で活動している。
⑧「米軍の部隊や装備、家族なども、
地元とのいかなる取り決めもなしに、また地元当局への事前連絡さえなしに、
日本に自由に出入りすることを正式に許されている。
⑨「すべてが米軍の決定によって、日本国内で大規模な演習がおこなわれ、
砲弾の発射訓練が実施され、軍用機が飛びまわり、
その他、非常に重要な軍事活動が日常的におこなわれている。
それらの決定は、行政協定によって確立した〔アメリカの〕
基地権にもとづいている。
して報告書はこのパートのまとめとして、
「このような強制された基地のあり方(インポージング・ベース・システム)
に対し、これまで日本人はおどろくほどわずかな抵抗
(サプライジングリー・リトル・レジスタンス)しかせず」、
「日本の主権が侵害されるなか、米軍基地の存在をだまって受け入れてきた」
しかし、そうした状況をそのまま受け入れていこう
という勢力が存在する一方で、
期限を決めて終了させようという動きもある。
だから日本の米軍基地問題は、「現在、重大な岐路にさしかかっている」
と結論づけています。
このように新原さんの発見した「1957年の極秘報告書」
(秘密文書①)によって、1952年の独立後も、
日本では軍事的な占領状態が継続されたことが、
完全に証明されてしまいました。
この報告書を読んで、日本の米軍基地容認派の、
とくに自称右派の政治家の方たちは、
少し反省していただければと思います。
みなさんは、ご自分が大好きなアメリカのエリート外交官たちから、
心の底から不思議がられ、また軽蔑されているのですから。
そして次にご紹介するのが、
日米密約研究のなかでも最大の発見といえる「基地権密約文書」
(秘密文書②)です
これはPART3でご説明する「砂川裁判関連文書」
(秘密文書③)と同じ2008年の4月に、
新原さんがアメリカ国立公文書館で発見されたものです。
1960年の安保改定時にむすばれたこの「基地権密約」は、
21世紀の日本で生きる私たちにとって、
はかりしれないほど重大な意味をもっています。
それはすでにご紹介した「1957年の極秘報告書」が証明した、
日本における米軍の占領継続状態が、2016年の現在も
まだつづいていることを完璧なかたちで証明するものだからです。
話は安保改定の前年、1959年の4月にまでさかのぼります。
そのころ、国民も自民党の政治家たちもまったく知らないまま、
帝国ホテルの一室で、安保改定交渉はすでに大づめをむかえていました。
首相の岸と個人的にも親しかった藤山外務大臣が、
オモテ側の正式な日米交渉とは別に、
ウラ側での秘密交渉をくり返していたのです。
(中略)
当時、マッカーサー駐日大使からワシントンへ、
つぎのような極秘電報が何度も送られていたことがわかっています。
「かれ〔藤山外務大臣〕は、行政協定について提案をしてきました。
日本政府は本質的にいって、行政協定を広く実質的に変更するよりも、
見かけ(アピアランス)を改善することを望んでいます。
その場合には、圧倒的な特権が米軍にあたえられ、
実質的な〔改定〕交渉にはならないでしょう」(1959年4月13日同前)
「かれら〔岸首相と藤山外務大臣〕は、
かなり多くの改定を考えていますが、その多くは形だけのもの、
すなわち国会に提出されたときに、行政協定の見かけ(アピアランス)を
改善するだけのものです」(1959年4月29日同前)
「私は行政協定の実質的な変更を避けるよう、
岸と藤山にずっと圧力をかけつづけてきました。
岸と藤山はわれわれの見解を理解しています」(1959年4月29日同前)
日米行政協定(1952年)第3条1項(前半)
合衆国は、施設(ファシリティーズ・アンド・エリアズ)
および区域〔=米軍基地〕内において、それらの設定、使用、運営、
防衛または管理のため必要なまたは適当な権利(ライツ)、
権力(パワー)および権能(オーソリティ)を有する。
↓
日米地位協定(1960年)第3条1項(前半)
合衆国は、施設および区域〔=米軍基地〕内において、
それらの設定、運営、警護および管理のため必要な
すべての措置を執とることができる。
この条文が、現在の基地問題のすべての基礎といってもいい、
日米行政協定と日米地位協定の核心部分です。
このふたつの「3条1項」さえきちんと理解できれば、みなさんはほと
んどの外務省のエリート官僚よりも、日米安保の問題にくわしくなれます。
ほんとうですよ。これはまったく冗談ではありません。
ただし条文を読むのは、さすがにみなさん慣れてないと思いますので、まず条文はとばし
て説明のほうから読んでいただいてもけっこうです。
「○○のため必要な(略)権利(ライツ)、
権力(パワー)および権能(オーソリティ)を有する。」
という言葉がありますが、これは、
「○○のため必要な、なんでもできる力をもっている」
という意味です。
つまり、
「アメリカは米軍基地のなかで、なんでもできる絶対的な権力をもっている」
ということになります。
「○○のため必要な、権利、権力および権能〔=絶対的な権力〕を
有する(シャル・ハヴ)」
という行政協定の表現が、地位協定では、
「○○のため必要な、すべての措置を執ることが
できる(メイ・テイク)」
というマイルドな表現に変えられています。
けれどもそれは、あくまで「見かけ(アピアランス)」だけの問題で、
行政協定時代に米軍にあたえられていた、
もっとも強い意味での「基地のなかでなんでもできる絶対的権力」は、
さきほどの「基地権密約」によって、
すべてこの新しい表現のなかに引きつがれたということなのです。
日米行政協定(1952年)第3条1項(後半)
合衆国は、また、前記の施設および区域〔=米軍基地〕に隣接する土地、
領水および空間または前記の施設および区域の近傍において、
それらの支持、防衛および管理のため前記の施設および
区域への出入の便を図るのに必要な権利、権力および権能を有する。
本条で許与される権利、権力および機能を施設および
区域外で行使するに当っては、必要に応じ、
合同委員会を通じて両政府間で協議しなければならない。
↓
日米地位協定(1960年)第3条1項(後半)
日本国政府は、施設および区域(=米軍基地)の支持、
警護および管理のための合衆国軍隊の施設および
区域への出入の便を図るため、合衆国軍隊の要請があつたときは、
合同委員会を通ずる両政府間の協議の上で、
それらの施設および区域に隣接し、またはそれらの近傍の土地、
領水および空間において、関係法令の範囲内で必要な措置を執るものとする。
合衆国も、また、合同委員会を通ずる両政府間の協議の上で前記の目的のため
必要な措置を執ることができる。
この条文はただ読んでも意味がわからないと思いますので、
まず結論からご説明します。
実は現在、アメリカがもっている在日米軍基地の権利(基地権)には、
「基地のなか」だけでなく、
「基地の外でも自由に動ける権利」がふくまれているのです。
ちょっと信じられないかもしれませんが、事実です。
=3条1項の前半は、
「米軍が基地のなかで、なんでもできる権利」
=3条1項の後半は
「米軍が基地の外で、自由に動ける権利」
そこから先が問題の「基地権密約」の出番なのです。
ここには
「地位協定のなかの『関係法令の範囲内で』という表現に関して、
もし日本の法律が米軍の権利をじゅうぶんに保障しない場合は、
それらの法律の改正について、日米合同委員会で協議する」
という内容が書かれています。
このあとも出てくると思いますが「日米合同委員会で協議する」
と書かれているときは、
「国民にみせられない問題について、アメリカ側のいうとおり密室で合意する」
という意味なのです。
つまり、米軍基地へのアクセス(出入り)について、
「米軍が絶対的な権利をもつ」という事実は変わらない。
それなのに、「日本国政府が、関係法令の範囲内で必要な措置を執る」
と、条文の見かけだけを変えたことによっておこる矛盾は、
日米合同委員会を通じて処理させる。
法律のほうを改正させるか、または法律の解釈を変えさせるなどして、
対処するということです。
くり返しになりますが、もともとそうした役割をはたすために考えだされたのが、日米合
同委員会という闇の組織なのです。
基地権密約の主役は岸信介でしたが、
指揮権密約の主役は吉田茂ということになります。
このふたりはいうまでもなく、旧安保条約(1952年)と
新安保条約(1960年)の締結という
「戦後日本」の最大のターニングポイントで、
それぞれ舵取りをまかされた日本のリーダーたちでした。
アメリカのもつ「基地権」については
岸が「見かけ アピアランス」だけを変えてごまかそうとしたため、
それが新たな密約を大量に生みだす原因となってしまいました。
しかし、そもそもこの基地権という権利の本質は、
旧安保条約の冒頭にある第1条をみれば、
そこにはっきりと書いてあるのです。
旧日米安保条約
(1952年4月28日発効)第1条
平和条約およびこの条約の効力発生と同時に、
アメリカ合衆国の陸軍、空軍および海軍を日本国内および
その附近〔in and about Japan〕に配備する〔dispose〕権利を、
日本国は許与し、アメリカ合衆国はこれを受諾する。(略)
重要なのは、ここでアメリカが手に入れたのが、
日本に「米軍基地をおく」権利ではなく、
「米軍を配備する」権利だったということです。
配備とは、軍隊がたんに基地に駐留することではなく、
そこから出撃して軍事行動(=戦争や演習)を
おこなうことを前提とした概念です。
しかも配備できる場所は、ほかの国の基地協定のように
「この場所とこの場所」というふうには決められておらず、
「日本国内およびその附近(in and about Japan)」となっています。
これはつまり、アメリカが必要と判断したら、
日本中どこに基地をおいてもいい、
どんな軍事行動をしてもいいということです。
ほんとうに、信じられないほどひどい取り決めなのです。
もっとも、ここでひとつだけ強調しておきたいのは、
こういう条文があるからといって、
「じゃあ、米軍はもうなんでもできるのか」
というわけでは、けっしてないということです。
これから指揮権密約の歴史をたどるうえで、
どうしてもさきに説明しておきたいのですが、
戦後の日米関係を考えるうえで、
そこには非常に重要なポイントがあるのです。
それは政治的な支配、とくに異民族の支配には、
①「紙に書いた取り決めを結ぶ段階」(政治指導者の支配)
②「その取り決めを現実化する段階」(国民全体の支配)
というふたつの段階があるということです。
たとえば①の段階では、どんな取り決めを結ぶことだって可能です。
それこそ「無条件降伏」という、
戦争に勝ったほうがなにをしてもよいという取り決めでさえ、
紙の上では結ぶことができる。
ただしそれは、あくまで「その国の政治指導者」という、
ごく少数の人びとと合意しただけの話であって、
何百万人、何千万人もの当事者がいる②の段階では、
もちろんそんなことは不可能なわけです。
この①と②は、概念のうえでは一体化しているように思えるけれど、
そのあいだには実は非常に大きなへだたりがある。
の本ではあまりくわしくお話しできませんが、
だから日本占領において、マッカーサーは
昭和天皇をあれほど大事にしたわけですね。
マッカーサーはまず最初に、
ポツダム宣言にもとづいて何百万人もの日本軍を武装解除するという、
非常にむずかしいミッション(任務)をあたえられていました。
しかし、かれはそれを「天皇のお言葉(布告)」として
軍人たちに命じるというかたちをとった。
その結果、特攻までやった日本軍の武装解除という大事業が、
まるでウソのようにスラスラとすすむことになったのです。
その後も日本国憲法ができるまでマッカーサーは、
自分のもっとも重要な命令を、
「ポツダム宣言にもとづいて、天皇が出す命令」(=ポツダム勅令)
というかたちをとって出しつづけました。
そのことによって日本国民の世論をコントロールし、
本来なら非常に困難なはずだった②のプロセスを、
あっけなくつぎつぎとクリアしていくことができたのです。
それはマッカーサーにとって、まさに「魔法の杖」を
手に入れたようなものだったでしょう。
けれども戦後のアメリカの外交官たちは、
マッカーサーのように天皇を思いのままにつかうことなど、
もちろんできません。
たとえわれわれ〔=アメリカ〕が条約上、どんな『自由』をもっていても、
相手国の国民がそれに敵意をもっていれば、
実際に〔その条約上の権利を〕行使することはできない」
「たとえどんなに『素晴らしい取り決め』が協定のなかに
ふくまれていたとしても、日本であろうと沖縄であろうと、
現地の住民がわれわれに敵意をむけるならば、
自由に行動できると考えるのは幻想にすぎない」
(『ジョンソン米大使の日本回想』草思社)
という関係にあるのです。
はいえ、逆に、
「じゃあ、紙に書いた取り決めは重要じゃないのか。
日本の御用学者がよくいうように、
『条約は一片の紙切れにすぎない』のか」
といわれれば、もちろんそんなことはありません。
取り決めを結んだときの力関係が変わらなければ、
その方向性、ベクトルが消えてしまうことはない。
少しずつ少しずつその取り決めに書かれた方向へ進んでいき、
いつかは実現してしまう。
そして、そうした「一度むすばれたあと、
少しずつ少しずつ長い年月をかけて同じ方向へ進んできた取り決め」の典型が、
これからお話しする指揮権密約なのです。
私自身、今回はじめてこの「指揮権密約」の歴史をたどったことで、
日米安保に関してこれまで見えていなかった本質が
はじめて見えるようになりました。
そのことについて、これからお話ししたいと思います。
「日本区域(ジャパン・エリア)において戦争または差しせまった
戦争ホスティリティーの脅威が生じたとアメリカ政府が判断したときは、
警察予備隊ならびに他のすべての日本の軍隊は、
日本政府との協議のあと、アメリカ政府によって任命された最高司令官の
統一指揮権ユニファイド・コマンドのもとにおかれる」
(「日米安全保障協力協定案」第8章2項)
これは「はじめに」で紹介した、
吉田が口頭でむすんだ統一指揮権密約のもとになった条文です。
(「統一指揮権のもとにおかれる」というのは、「指揮下に入る」という意味です)
「戦争になったら、自衛隊は米軍の指揮下に入って戦う」
という内容は同じですが、
「戦争になったと判断するのが米軍司令部である」ことも、
はっきりと書かれています。これがアメリカ側のもともとの本音だったのです。
ここで昨年の安保法案の審議を思い出してください。
あの国会のやりとりのなかで、もっとも奇妙だったのは、
「どのような事態のとき、日本は海外で武力行使ができるのですか」
「現時点で想定される存立危機事態とは、具体的にどのような事態ですか」
と、野党議員から何度聞かれても、安倍首相や中谷防衛大臣は
最後までなにも答えられなかったことでした。
しかし、この条文を読めば、その理由は一目瞭然です。
それは彼らが判断すべきことではなく、
アメリカ政府が判断すべきことだからなのです。
もともとこの条文は、旧安保条約の「原案」として、
1951年2月2日にアメリカ側が提案してきたものでした。
そのとき吉田首相と外務省のスタッフは、
来日したジョン・フォスター・ダレス国務省顧問(のちに国務長官)
ひきいるアメリカ側の使節団と、日本の独立にむけた日米交渉の
真っ最中だったのです。(第1次交渉:1951年1月26日~2月9日)
この条文を読んで、日本側は大きなショックを受けます。
というのも、そこに書かれていた
「米軍司令部の判断にもとづき、米軍の指揮下に入る」
という箇所も、もちろん大問題でしたが、
なによりその主語が「警察予備隊ならびに他のすべての日本の軍隊」
となっており、日本がふたたび軍隊をもつこと(=再軍備)が、
すでに条文のなかで予言されていたからでした。
この時点で日本国憲法ができてから、
まだ3年9カ月しかたっていません。
憲法9条をもつ日本が、やがて自衛隊をつくって
本格的に再軍備するなどとは、国民はだれも思っていない時期です。
だから前年の7月、朝鮮戦争の勃発直後にマッカーサーが吉田に対して、
うむをいわせず警察予備隊をつくらせたときも、
「あくまで警察力の延長」という位置づけがなされていたのです。
そのため、おどろいた吉田首相と外務省の担当者たちは、
「こんな取り決めを国民に見せることは絶対にできない。
どうしても削除してほしい」
とアメリカ側に頼みこみ、その後もねばりにねばって、
結局、旧安保条約や行政協定の条文からは、
それらを削除することに成功します。
しかしその一方で、独立から3カ月後の1952年7月23日に、
吉田首相が口頭で「戦争になったら、日本軍は米軍の指揮下に入る」
という密約を結びました。
実はこのあと翌1952年2月までつづく、平和条約と安保条約、
そして行政協定をめぐる約1年間の日米交渉のなかで、
日本側は連戦連敗を重ねていくことになります。
国際法の権威であるダレスがつぎつぎとくり出すテクニックに、
まったく対応することができず、結局アメリカ側の
思いどおりの条約をむすばされてしまうのです。
しかし、そのなかで唯一の救いになっているのは、
当時の外務省条約局の担当者たちが、
交渉過程をできるかぎりくわしく記録して、
その評価を将来の国民の判断にゆだねようという健全な姿勢を
もっていたというところです。
その代表が、条約局長として交渉の最前線にたった
西村熊雄でした。
かれは個人的にも何冊も本を書いていますが、
なにより評価されるべきは、その全交渉過程を20年以上の時を
かけて、全8分冊・約3500ページもの基礎資料集、
『平和条約の締結に関する調書』(1959~1972年、以下『調書』)
にまとめあげたことでしょう。
この膨大なページ数の記録をひとつひとつたどることで、
私たち日本人は自分たちがなぜいま、
対米関係でこれほどまでに理不尽な状況におかれているのか、
そしてこれからいったいどうすれば、
そこから脱却することができるのかという問題について、
たしかな歴史的立脚点をもつことができるからです。
西村はこのアメリカ側原案を最初に読んだときの感想を、『調書』のなかで、
「駐屯軍の特権的権能があらわに表示されているため、
一読不快の念を禁じ得ないものであった」
という有名な言葉で表現しています。
ショックをうけた西村たちは、その日の夜遅くまでかかって修正意見をまとめ、翌3日の
午前、神奈川県大磯の吉田邸をたずねて対応を協議します。そのうえで同日夕方、アメリカ
側に文書で、つぎの4点についての修正を求めたのです。
①【再軍備と指揮権の問題】日本の再軍備と統一司令部
ユニファイド・コマンド(=統一指揮権)について書かれた
第8章は、まるごと削除してほしい。
②【基地権の問題】(a)占領の継続という印象をあたえないため、
在日米軍のもつ特権については条文に具体的に書かないでほしい。
(b)占領が終わったあと米軍が使用する基地は、
現在の基地をそのままつかいつづけるのではなく、
必要なものにかぎり両国の合意によって決めるというかたちにしてほしい。
③【基本原則の問題】この協定(旧安保条約)が
「両国の合意にもとづく」ものだという原則をまもるため、
米軍の日本への駐留については、「日本が要請リクエストし、
アメリカが同意アグリーする」という表現ではなく、
「両国が同意アグリーした」と変えてほしい。
④【平和条約の問題】米軍が平和条約の発効後も
日本に駐留することについては、平和条約の条文には書かないでほしい。
こうした状況のなかで、日米交渉の最大のポイントとなったのが、
「再軍備」と「指揮権」についてさだめた①(第8章)
の問題だったというわけです。
その背景には前年6月末に起こった朝鮮戦争の影響で、
日本がアメリカから「再軍備をして、朝鮮戦争を援助しろ」と、
ずっと圧力をかけられていたという状況がありました。
しかし、わずか3年9カ月前に憲法9条をもったばかりの日本で、
さすがにすぐ再軍備というわけにはいきません。
そこでこの条文だけはどうしても削除してほしいと頼む一方で、
吉田たちは代わりに非常に重大な提案をふたつ、
アメリカ側に文書でつたえることにしたのです。
ひとつは、第8章の削除を求めた文書のなかで、
「このような条文は削除したい。
しかし、それは日本が軍備をもち、交戦者〔=戦争をする国〕
となることを拒否するという意味ではない」
と、それまでの公式見解を180度転換し、
同時に「再軍備の発足について」という別の文書をとどけて、
自衛隊の前身である保安隊(5万人)の発足を約束した。
つまり正式に「軍隊」を発足させることを、アメリカ側に約束したのです。
うして警察予備隊のときとはちがって、
日本政府自身の決定による正式な軍隊の発足が、
「事実上の密約」として約束されてしまうことになりました。
日本人にとってはつらい話ですが、
客観的にはこの1951年2月3日の「再軍備密約」によって、
日本政府による憲法9条2項(=戦力不保持)の
解釈改憲はすでにおこなわれていたことになります。
それから65年という気の遠くなるような時間をかけて、
この問題はまっすぐ現在の安倍政権による
安保法制の問題にまでつながり、
昨年(2015年)9月、ついに最後の防衛ラインだった
「海外派兵」が突破され、1項もふくめた9条全体が
解釈改憲されてしまったというわけです。
「アメリカとの軍事上の取り決めは、憲法を超える」
私たちが昨年の国会でみた現実は、すでに65年前から、
ずっとつづいているものだったのです。
平和条約
(日本国民に見せられない内容)
⬇
旧安保条約
(日本国民に見せられない内容)
⬇
行政協定
(日本国民に見せられない内容)
⬇
日米合同委員会での秘密協議
それまではひとつだったアメリカ側の安保条約の原案
(「日米安全保障協力協定案」)が、この時点でふたつに分割され、
のちの「旧安保条約」と「行政協定」が生まれる
ことになったというわけです。
これにより、戦後の日本とアメリカの軍事的な関係は、
上の図のような「密約の4重構造」によって形成されることになり、
その結果、完全に日本国民の目から隠されてしまう
ことになったのです。
トルーマン大統領は、このプロジェクトをスタートさせる基本原則として、
「日本中のどこにでも、必要な期間、必要なだけの軍隊をおく権利を獲得する」
という方針を、正式に決定しています。
しかし、もちろん独立後の主権国家に、
そのような権利を認めさせることは非常にむずかしい。
国連憲章にもポツダム宣言にも、完全に違反した行為だからです。
ダレスも1951年1月26日、来日した翌日のスタッフ会議で、
「しかし日本政府がそのような権利をアメリカにあたえた場合、日本の主
権を侵害する条約をむすんだと必ず攻撃されるだろう。この提案を受けい
れさせるのは非常にむずかしい」
けれども、それほどむずかしいと思われた条件を、
ダレスは日本側の提案(2月3日)をもとにした
「行政協定+日米合同委員会」という新たな構想によって、
ほぼすべてクリアすることに成功します。
ダレスが日米交渉をスタートさせるにあたって立てていた、
「寛大な平和条約によって、常識外の軍事特権を勝ちとるのだ」
という基本戦略に、日本の外交官たちが
そのまま誘導されていったことがわかります。
翌6日、ダレスは日本側に「平和条約」
「旧安保条約」「行政協定」の3本立ての原案を示し、
9日に日米でサイン、11日に日本での日程を終えました。
そしてそれから7カ月後の1951年9月、ダレスはサンフランシスコに
52カ国の代表を集め、対日平和条約(と旧安保条約)を
みごとに成立させます。
それはトルーマン大統領からこのプロジェクトのスタートを
許可された日の、ちょうど1年後の同じ9月8日のことでした。
ダレスはこの大成功によって外交官としての評価を高め、
1年4カ月後にはアイゼンハワー政権で、
アメリカ外交のトップである国務長官に就任します。
そして、ほぼ同時にCIAの長官となった実の弟、アレン・ダレスとの
二人三脚で、1950年代を通して国際政治の
オモテ(国務省担当)とウラ(CIA担当)を
思いどおりにあやつっていくことになります。
そして徹底した反共思想のもと、
世界中で軍事同盟をむすび、冷戦構造を強化して、
気に食わない外国政府を転覆させ、
正当な選挙で選ばれた政治指導者を排除するといった
違法行為にまで、手を染めていくことになるのです。
(つづく)・・・
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①矢部宏治『日本はなぜ「戦争ができる国」になったのか』
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