1949年から1964年までの15年間、
憲法改正をめぐる国民的議論が交わされた時代の
憲法論議に関する様々な一次資料をNHKが大量に発掘した。
そこから見えてきたものは何か――。
現行憲法が「押しつけ」か?
1949年、憲法をめぐる状況が一変する。
東西冷戦が激化、中華人民共和国が建国、
朝鮮戦争が勃発するなか、
アメリカは、突如、態度を翻した。
アメリカ自身が
日本国憲法の《9条の戦力不保持》制定を主導したにも関わらず、
共産主義の防波堤として、《日本の再軍備》を望むようになった。
アメリカが日本に憲法改正を迫る《未公開文書》が発見された。
宮澤喜一が遺した、1953年に日本の防衛体制を協議した
《日米交渉記録》である。
米国務省の一室で、『池田 ロバートソン会談』(1953年10月)
吉田茂総理の特使として、
池田勇人とその側近の宮澤喜一が出席。
日米の激しい交渉がなされた。
アメリカは、日本の保安隊(自衛隊の前身)を
三倍に増員するよう要求。
日本は、憲法(9条)と、経済的理由から無理だと主張し、
限界ギリギリの保安隊増員数を提示。
すると、アメリカは憲法改正を迫った。
アメリカは、日本の再軍備の足枷となる
憲法への苛立ちを募らせた。
CIA文書には、アメリカは、日本に憲法改正について、
「steady,quiet pressure 静かに確実に圧力を与え続け」
日本国民が防衛の必要性に目覚める「education 教育」していく
必要性があると記されていた。
宮澤喜一は、日米会談について、日記にこう記した。
「defense 防衛こそがアメリカの一番の狙いである」
「防衛ビジネスに我々を引き込もうとしている」
一方でアメリカは、
日本の経済界にも、憲法改正(再軍備)を働きかけていた。
アメリカの求めに応じて、
日本最大の経済団体の経団連に、
約100の防衛産業会社が加盟する「防衛生産委員会」が作られ、
アメリカの要求を代行して日本政府に要求していた。
防衛生産委員会 初代委員長 郷古潔 〜
郷古は、戦前は三菱重工の社長でゼロ戦の生産を主導。
東條内閣の軍需顧問。
戦後は、朝鮮戦争 特需の際にアメリカとの結びつきを強め
産業発展の為に再軍備を求めるようになった。
GHQの占領過程の報告書の公開から、
憲法はGHQに一方的に押し付けられたものだという
受け止め方が広がった。
1955年、保守政党が合同して《自由民主党が誕生》し、
鳩山一郎総理、岸信介自民党幹事長らが、
《押し付け憲法》を主張し、党の理念に自主憲法制定を掲げた。
超党派の「自主憲法期成議員同盟」が発足。
自主憲法期成議員同盟 初代会長は、広瀬久忠。
広瀬は、戦前の内務省出身。
戦時下は、3度も大臣を歴任するなど影響力のある政治家。
戦後、公職追放。解除のあと参院議員となり、
憲法改正を生涯の目標とした。
広瀬の山梨の家の蔵から、
膨大な改憲案を模索した資料が出てきた。
そして、作成された《憲法試案》には、
これを助ける組織が存在したことが判った。
外務省、大蔵省主計局、防衛庁 そして、内閣法制局…
国の根幹を担う省庁の官僚が、
いち政治家のかいけに関与していたのである。
苗字の個人名の記載もあった。
内閣法制局長官… 佐藤達夫、林修三、高辻正己…
法の番人たる法制局の錚々たる人々が協力していたのだ。
政府の法律案が憲法に違反していないかを審査する
厳しい中立性が求められる内閣付属の機関である
法制局の幹部たちが、
政治家個人の試案に関わることは許されない。
憲法試案に関わった官僚の唯一の生存者、福田ゆたか氏。
福田氏は、
一政治家の改憲案に協力することに戸惑った。
広瀬憲法試案というような表紙の文書を見せられて、
意見を聞かせてほしいと頼まれた。
私用と心得て自宅で目を通した。
憲法を改正すべきだ考える同僚も少なくなかった。
有力な意見を参考に公正な結論を求めたいという考えの
官僚への打診であった。
三年をかけて、日本国憲法広瀬試案が完成した。
・天皇を日本の首位に位置付ける。
・行き過ぎた国民の権利を制限する。
・9条は権力不保持の二項を削除し、自衛軍の保持を明記。
・国民に防衛上の義務を課す。
しかし、戦争から10年余りしか経っていなかった日本。
広瀬らの憲法改正の動きに国民は反発した。
憲法遵守を掲げた護憲運動団体が結成されていった。
「自由なければ平和なく、平和なければ自由がない。
絶大なる犠牲によって得た平和憲法を尊重し
世界に先んじて戦争を放棄したことを誇りとし、
平和憲法を守らんとする。」
こうして憲法をめぐる議論は政治運動になっていった。
政府が改憲を後押しするために作った「憲法調査会」(1957〜64年)
政治家や学者など40人の改憲派と護憲派の間で論戦が行われた。
「日本国憲法はアメリカに押し付けられたのか?」
成立過程を検証するために、高柳賢三 会長自らがアメリカに赴き、
GHQに直接聞き取りをし、800頁もの資料を持ち帰った。
「日本人の意思で憲法を起草するのが望ましい。」
「日本の憲法学者らの考えも重要視された」
「天皇制の維持と引き換えにアメリカ側に押し付けられたという
改憲派の主張は誤解だ」と記述する文書を発見した。
そして、「憲法調査会」は、
日本国憲法はアメリカ側に
《単純に押し付けられたとは言えない》と結論づけた。
1956年、鳩山政権は、
「小選挙区法」を制定し、
大政党に有利な小選挙区制の導入を目論んだ。
鳩山政権は、憲法改正案の発議に必要な
2/3の議席の確保をしたいという思惑があったのである。
野党だけでなく自民党内からも批判され廃案となった。
その1ヶ月後、国政選挙が行われ、
自民党は、2/3どころか、半分も議席を獲得できなかった。
この選挙結果は、
国民自身が、改憲派の改正案よりも、
現行の日本国憲法を選び直したのである。
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【Nスペ】憲法と日本人~1949-64 知られざる攻防~
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