*【日本の戦争麻薬ビジネス①】
[麻薬で戦費を稼いだ日本]と[加計⇆Tu博士⇆オウム]のつながり
*【日本の戦争麻薬ビジネス②】
オウム薬物ビジネスを隠す人々 (日本と台湾のCIA傀儡たち)
*【日本の戦争麻薬ビジネス③】
山西省ケシ栽培アヘン密売 / 売られた山西省残留兵 &「白団」
■隠匿物資 M資金
日本の戦後賠償は、
サンフランシスコ平和条約を
連合国55か国中、48か国と講和を結び(1951年)、
多くの条約当事国は賠償請求権を放棄した。
この条約とは別に、個別の国々と結んだ協定(二国間協定)で、
戦争で日本が与えた損害に対して賠償を行なうことを約束し、
日本が戦後外国に支払った戦後補償は、当時の金額で1兆300億円以上。
内訳は、
①賠償および無償経済協力(準賠償)。
②賠償とは法的性格を異にするが戦後処理的性格を有する贈与・借款。
③軍需工場など日本国内の資本設備をかつて日本が支配した国に移転譲渡する「中間賠償」。
④日本政府や企業、個人が海外に持っていた在外資産の諸外国への引き渡し。
日本軍が隠し持っていた軍事物資とされるダイヤや金塊など貴金属類の資産は、
GHQに接収され、建前上は、賠償、戦後復興にほぼ費やされたことになっている。
そして、サンフランシスコ平和条約発効(昭和27年 1952/4/24)と同時に接収は解除され、
日本銀行の地下の倉庫に収納され大蔵省によって保管されていたはずだった。
ところが、倉庫内のお宝は、秘密裏に売買され無断流用された事件、
さらに、GHQ少将(William Marquat)らが日銀に調査押収に訪れた際、
ダイヤをネコババされるという事件、
(*当時、日銀の本支店で保管されていた貴金属の多くがGHQ経済科学局の管理下にあった。
同局において、日銀金庫管理担当官だったエドワード・マレー(Edward J.Murray)が帰国後、
約500個のダイヤを不正に持ち出した容疑で米国当局に逮捕され、禁固10年の実刑判決を受けた。
また、初代局長レイモンド・C・クレーマーをはじめ初期の同局将校ら十数人が
後に米国で汚職や横領などの罪で検挙・更迭された。)
(*国会の議題にもなった→ 国会 行政監察特別委員会 昭和二十八年二月二十一日
大物フィクサーによる隠匿物資資金の政界ばら撒き 辻嘉六事件などが発生。
また、GHQに対するひとりの通告者(後藤幸正)の知らせによって、
東京湾に沈んでいる大量の金塊などの貴金属が引き揚げられるという事件も起きた。
(*『東京湾金塊引揚げ事件』については後述する)
占領下の日本でGHQが接収(orネコババ)した隠匿物資を基にした秘密資金(M資金)が、
現在も極秘に運用されていると噂され、
行方知れずの秘密資金を巡って、現在に至るまで様々なM資金詐欺は絶えない。
(*実例→ https://npn.co.jp/sp/article/detail/92480114/ )
このお宝は、戦地の住民から供与された(強奪した)ものだと言われているが、
日本軍の一番の資金源はアヘン密売だ。
このお宝の出所はアヘン資金であり、
戦後も、密かに進められていた大陸での〈再軍備、交戦のための資金〉として、
隠匿する必要があったのではないか。
この計画は旧軍の高級将校らが首謀し実行に移され、
政府もGHQも目を瞑ったとされるが、
むしろ日本の軍産複合体(軍+官僚+財閥)とGHQのG2(参謀第2部)と結んだもので、
要するに、一蓮托生、戦争で儲ける戦争屋どもの謀略なのだ。
山西省の軍閥の閻錫山と密約を交わし、
終戦後も日本兵を残留させ共産党・人民解放軍との戦いに参加させ、
さらに中国国民党の蒋介石と密約を交わし、
国民党義勇軍「白団」を送った。
「白団」は中国から薬品などの密輸も行なっていたことが発覚している。
そして、その後「白団」の団員の多くは、自衛隊の枢要な地位についた。
アヘンで汚れた戦争の受益者たちは、
利益をダイヤや金に変え我先に我が物にして日本持ち帰り、
また、まるで自らが麻薬中毒患者のように、
性懲りも無く、さらにアヘン戦争ビジネスを継続しようと目論んだのではないか。
そして、白い顔で戦後を生きて益々醜く肥え太ったに違いない。
日本の戦争は、見事にアヘン戦争だ。
約 半世紀の間の数々の戦争は、
東アジアを「大東亜共栄圏」どころか、
惨憺たる 「大東亜“麻薬汚染”圏」になってしまった。
■日本のアヘンで汚れた戦争
『大東亜“麻薬汚染”圏』
1894年(明治27年)~1895年(明治28年) 日清戦争
日本と清国(中国)が李氏朝鮮を巡って起こした戦争。日本の勝利。
清から台湾を割譲された台湾でのアヘン対策として「漸禁政策」を打ち出し、
政府はアヘン専売制を行い巨額の富を得た。
内地(和歌山県、大阪府)と朝鮮では、ケシ栽培も行い、
生産地と消費地を区別しの管理・統制を効率的に行い利益の最大化を図った。
1904年(明治37年)~1905年(明治38年) 日露戦争
日本とロシアが朝鮮半島や満州を巡って争った戦争。日本の勝利。
日本の租借地となった中国 遼東半島関東州でも、台湾と同じく、
アヘン専売制をとった。
1914年(大正3年)~1924年(大正13年) 第一次世界大戦(シベリア出兵を含む)
三国同盟(独・オーストリア・伊)と三国協商(英・仏・露)の対立による世界戦争。
日本は日英同盟から協商側として参戦。
第一次世界大戦の勃発で、麻薬として輸入していたモルヒネが供給されなくなり、
国産化に踏み切る。1915年、星製薬(星一)がモルヒネの製造に成功。
大戦が終結し、量産化していた製薬会社のモルヒネの在庫を捌くために
植民地の朝鮮(1910年韓国併合)でモルヒネの販売制限を緩和した。
アヘンは禁止だがモルヒネは許可し朝鮮ではモルヒネ中毒患者が10万人規模となった。
1937年(昭和12年)~1945年(昭和20年) 日中戦争(支那事変)
日本と中国(中華民国)による戦争。日本が降伏し終戦。
日本の中国各地の傀儡政権の満洲国、蒙疆政権(内モンゴル)、冀東防共自治政府、
汪兆銘政権(南京国民政府)などでは、全てアヘンの専売制をとった。
満洲国では、主に熱河省でアヘンが生産され、ほかの地域に供給された。
生産地と消費地を区別し、管理する手法も流用された。
例のないほど大規模なアヘンを生産・販売・使用した日中戦争の実態は、
まさにアヘン戦争だった。
1941年(昭和16年)12月8日〜1945年(昭和20年)8月15日 太平洋戦争
日本と連合国(米・英・オランダ・中国)などとの戦争。
広島・長崎への原爆投下とソ連の参戦によって日本がポツダム宣言を受諾、無条件降伏。
南下した日本軍は東南アジアでもアヘンの専売に着手した。
シンガポールでは英国のアヘンを押収し精製工場を復旧して、
マレー、スマトラ、ボルネオなどに製品を供給し、莫大な軍費を稼いだ。
一方で、1940年代に入ると日本本土で覚醒剤が蔓延しはじめた。
覚醒剤の成分は、メタンフェタミンもしくはアンフェタミンであるが、
戦力や労働力の拡大のため軍需品として大量生産され、
メタンフェタミンでは大日本製薬の「ヒロポン」、参天堂製薬の「ホスピタン」、
小野薬品工業の「ネオパンプロン」、富山化学工業の「ネオアゴチン」。
アンフェタミンでは武田薬品工業の「ゼドリン」、富山化学工業の「アゴチン」などである。
1945年8月の敗戦により不要となり市中に流出してしまった。
■東京湾金塊引揚げ事件
後藤幸正という通報者とは⁉️
東京湾金塊引揚げ事件 1946年4月6日
〜降伏直前に旧軍が東京湾の越中島海底に隠匿していた、
金塊1,200本・プラチナ塊300本・銀塊5,000㌧という
大量の貴金属が1946年4月6日に米軍によって発見された事件〜
さて、東京湾金塊引揚げ事件 ー
敗戦後の混乱の中にある一般の人々にとっては、
目を疑うようなお宝の出現は衝撃的で、
世にも奇妙な事件として目に映ったことだろう。
この事件の詳細については、
ヤクザを題材とする著作の多い作家、安田雅企氏が調査し、
ノンフィクション『追跡・M資金―東京湾金塊引揚げ事件』(1995)を上梓している。
内容はこちらに詳しい→ http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-43dd.html
この事件は、ひとりの男の通報から発覚する。
この事件のキーマン、後藤幸正(本名を幸太郎)。
いわゆる政財界の黒幕、一種の政商、軍部御用商人である。
後藤幸正は、静岡県富士宮市の旧家に生まれ、
富士川の水力を利用して富士川発電を作り、
身延鉄道、伊豆箱根鉄道を創設、社長を務めた。
富士川発電が東京電灯(現、東京電力)と合併すると取締役に就任。
成田鉄道の役員。
浅野セメントの浅野総一郎、安田財閥の安田善次郎、
運輸大臣・東京市長を歴任した後藤新平らの知遇を得て
戦前・戦中に政界、軍部に顔を効かせ活躍。
頭山満、古島一雄と親交を結び、
蒋介石、孫文らと交わり、敗戦により全財産を失うまでは
中国、台湾、朝鮮、樺太に事業所、会社を持つ実業家であったという。
まさに、軍産複合体の一隅を占める人物であると言って良いだろう。
しかも、日本がアヘン戦争ビジネスに手を染める切っ掛けとなった
台湾「アヘン漸禁政策」のアヘン専売制事業を打ち立てた後藤新平との知遇を得て、
急激に事業を拡大している。
後藤は、食料や軍服、戦闘用品を軍に納入していたというが、
彼の事業の急成長は、アヘンと無縁ではないだろう。
さて、その後藤幸正は、
1946年3月23日、通訳(榎三郎/小さな商事会社社長)を伴い、
GHQ第32軍調査部担当将校エドワード・ニールセン中尉の事務所を訪ねた。
東京・丸の内三菱ビル二十一号館。
そして、後藤幸正は、ニールセン中尉に
「東京湾の月島付近、九日本陸軍の糧秣廠の倉庫の近くの海底に、
膨大な量の貴金属塊、旧日本軍部の隠し財産が埋められています。」と打ち明けた。
同年4月6日、後藤は部下と潜水夫らを米軍用車に乗せ、
ニールセン中尉と共に東京湾月島に向かった。
そして、潜水夫らが引き揚げたのは、「金の延べ棒」だった。
実は、当初この引き揚げ作業は日本側で行う予定であったが、
日本側の内部で財宝を巡る争いがあり、
後藤幸正はそれに嫌気がさして「米軍に一任」してしまったのだという。
連合軍最高司令部の判断で、米軍第一騎兵師団が管理することになってしまい、
金塊等の引揚げ作業は、米軍の管理下で極秘に行われ、
ブツの全容も開示されず、その帰属すら曖昧となってしまった。
後藤幸正らは、正当な権利として、金塊の日本への返還をGHQに要求するが、
結局はタライ回しにされ埒があかず、
旧軍部の大量のお宝は、またしてもGHQにネコババされてしまったのである。
さて、そもそもこの金塊を東京湾に沈めたのは
旧日本軍の下級兵士30人ほどであるという。
この話を後藤幸正の耳に入れたのは馴染みの鍼灸師(宅見秀峰)だった。
宅見の客に、旧日本軍隠匿物資の金塊の場所の地図を5万円(現在の価値で5千万)で
売りつけて来た男がいたのである。
後藤幸正はこの情報に信憑性を感じ、大金を用意して地図を買ってやったわけだ。
(*後藤忠政『憚りながら』では〜阿南惟幾と親しかったことから陸軍の正確な情報が入ったのだろう〜と推測している。)
金塊を沈めた30人の中のひとり伊山定吉(二等兵)。
伊山定吉が勤めはじめた製鋼部の同僚(下村勘太)とその兄貴分(三上才次)に
この話が伝わった。三上才次が鍼灸師(宅見秀峰)に話を持ち込んだ客だった。
後藤は、日本縦貫道路を建設するという夢があり、
この儲け話に大金を投じ、引揚げの潜水夫、船頭などの賄いもしていたので、
金塊の所有権は自分にあるものと思っていたが、
三上や下村の仲間割れが飛び火して分け前を要求するなど面倒な事になり、
嫌気がさした後藤がGHQに引き揚げの下駄を預けたのだった。
■隠匿物資事件の背後の戦争と平和の闘い
[民政局 vs G2]のGHQ内部闘争あり❗️
東京湾から引き揚げられた金塊のことを知るこれらの日本人は、
通訳の榎三郎や伊山定吉をはじめ、
検事局で尋問され占領下の中野拘禁所(中野刑務所)で拷問を受けた。
中には変死する者、自殺する者も出た。
後藤幸正も米兵が訪ねて来てタバコやチョコレートを勧められても断るなど
用心していたが、ある日、喀血して突然死した。
1946年1月22日には、東京の板橋と滝野川の区民が、
陸軍造兵廠滝野川倉庫の大豆、木炭などを摘発し〈人民配給〉を行った。
一般市民が隠匿物資を摘発し人々に分け与えたのである。
政府は2月17日、隠退蔵物資等緊急措置令を発して摘発に着手し、
6月13日、社会秩序保持声明で、「民間の摘発を違法」と断定した。
これが、東京湾金塊引き揚げ事件の日本人関係者らが署っ引かれた法的根拠だろう。
1947年2月14日、当時の官公庁のひとつの経済安定本部に
隠退蔵物資等処理委員会(委員長石橋湛山)を設けて摘発を行ったが、
世耕弘一副委員長にかかわる汚職事件により8月に委員会は廃止された。
また、1947年の〈隠退蔵物資事件〉を契機に
衆議院に作られたのが「不当財産取引調査特別委員会」、
検察庁内に作られたのが、「隠匿退蔵物資事件捜査部」である。
「隠匿退蔵物資事件捜査部」は、
GHQが戦後隠された旧日本軍の軍需物資を収奪するために作られた組織である。
この隠匿退蔵物資事件捜査部こそが、東京地検特捜部の前身なのである。
衆院「不当財産取引調査特別委員会」は、日本国憲法に規定された国政調査権をフル活用し、
政界・財界の大物を次々と喚問した。
これがリベラル志向の芦田内閣の早期瓦解につながった。
芦田内閣の瓦解の裏には、リベラル中道政権を支持する「GHQ民政局」と、
保守政権の復活を支持する「G2(GHQ参謀第2部)」による激しい主導権争いが背景にあった。
GHQ民政局は、徹底して日本の民主化・非軍事化・小国化政策を目指したが、
米ソ対立による東西冷戦が始まり、アメリカ本国も反共の砦として活用する意向が
GHQにも伝えられG2は俄然勢いづき、結果的に第2次吉田内閣が成立したのだ。
以後、1993年の細川内閣誕生に至るまで、
リベラル政党が政権の座に就くことはなかった。
■後藤幸正の孫は
「後藤組」組長の後藤忠政❗️
後藤幸正は、
山口組系二次団体「後藤組」の後藤忠政の祖父にあたる。
後藤忠政、後藤組(静岡県富士宮市)組長。
1970年山口組傘下。1991年、東京都八王子市ニ率会が系列入。
福島、北海道、埼玉、熊本など十都道府県に三十近い団体を持つ。
組員五百名、準構成員を入れると千名近い。
都内に金融、不動産、物品販売業などの企業事務所を進出。
*プロフ詳細→http://ecoecofun.blog121.fc2.com/blog-entry-8.html
*「憚りながら」紹介→https://ameblo.jp/hideomurai/entry-12117817634.html
*過去記事→③オウムの闇・生き残る分子 ~後藤組・後藤忠正 / 早川組・早川紀代秀
◉後藤忠政が祖父について語る
〜〜頭山満と一緒に酒飲んで語り合ってる写真とか、
当時、東京市長だった後藤新平と肩組んでる写真があったからね。
蒋介石が日本にいた時は、ずっとうちのじいさんの所から通わせてたらしい。
要はパトロンだな。
じいさんが蒋介石と友人だった関係で、親父は大学を出た後、
大陸へ渡って学校の先生をしてたんだ。
終戦後もじいさんはずっと東京にいたんだけど、
昭和21年か22年頃、元軍人だとか、自分がかわいがっていた人間達が、
いろいろと相談に来てたらしい。
そんな中で東京湾の浅瀬に陸軍が船ごと金塊を沈めたという話を聞いて、
それを海底から引き揚げたことで有名になったんだ。
その時の写真もいっぱいあったし、当時の新聞にも一杯報道されてるから間違いないよ。
じいさんは戦中から特に阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍大将(陸軍大臣、ポツダム宣言受諾直前に自害)とは親しかったそうだから、陸軍関係の正確な情報が入ったんだろうな。
当時はアメリカの占領下だったから、引き揚げた金塊は一旦アメリカに渡ったんだけど、
後になって国庫に入ったらしい。
そういえば、大蔵大臣・田中角栄の一筆をどっかで見たな・・・・。
角さんが大蔵大臣をやってた頃といえば、昭和30年代の後半だろ。
その頃に金塊が日本に戻されたとしたら、
じいさんが引き揚げてから15年も経った後の話だ。
いづれにしてもそれがじいさんの最後の大仕事だった。
金塊を引き揚げる資金を作るのに財産を売って、
今で言うと10億とか20億、もしかすると50億とかをつぎ込んだんだよ。
金塊を手にしたら、それを元手に、日本を縦に貫く高速道路を造ろう。
その「日本縦貫高速道路」が完成したら、
北海道から九州までの物資輸送が飛躍的に発展する。
それに道路建設で街にあふれる失業者も減るはずだ。
セメント、鉄鋼業界も潤うだろう――と、いろいろ考えてたらしいわ。
けれど結局、金塊は米軍に持って行かれて、だから最期は金無しになって
死んだんじゃないかな。確か昭和24年だ。
伊豆長岡に、面倒を見ていた「大和館」という大きな旅館があって、そこで死んだ。
ただじいさんの経済力や、それをバックにした政治力、
人脈が並外れていたことは間違いないよ。
そういう話は、中学を卒業してから周りの人に教えてもらったんだ。
「あんたのおじいさんは凄かった」って。〜〜
◉後藤忠政の幼少期〜母の死 貧乏 虐待
〜〜後藤忠政(本名忠正)は1942(昭和17)年東京市荏原区(現在の東京都品川区の一部)に4人兄弟の末っ子として生まれた。太平洋戦争の激化により、2歳の時に父和吉の実家がある静岡県富士宮市に疎開して以降、この地で育った。
「♪酔ってくだまく父さの声を~♪逃げて追い出しゃ吹雪の夜道~」って歌があっただろ。三橋美智也が歌っていた『母恋吹雪』。あれ聞くと、子供のころを思い出すんだよ。
ちょうどその歌が流れていたころ、俺も全く同じ境遇、同じ心境だったから。
「♪こんな時には母さが恋し~♪なんでおいらを残して死んだ」って、ほんとにその言葉通りなんだ。
おふくろは俺が2歳の時に死んだ。
俺の生まれは東京なんだけど、2歳の時に空襲が始まったから、親父の実家がある富士宮市に、子供たちだけ疎開させられて、ばあちゃん(父方の祖母)と一緒に暮らしてたんだ。
親父とおふくろは、東京で酒の問屋をやってたんだ。
中野の方で、戦時中だから酒なんかなくてみんなメチル(アルコール)とか飲んだりしていた時代だ。だけど、爺さんの顔が利いたもんで大仁(おおひと=現在の伊豆の国市)の大きな酒造会社から、じかに焼酎が入ってきたりして、そりゃもう連日、大繁盛だったらしい。列をなすぐらいにな。俺たち兄弟が疎開してからおふくろは何度か兄弟の様子を見に来てたんだ。その日もおふくろは俺たちの様子を見て帰ろうとしてたんだが、その時に俺が「一緒に帰りたい」ってねだったそうだ。それまでも俺だけ一緒に連れて帰ってもらったことが何回かあったんで。一番小さかったもんでな。
けどその日に限っておふくろは「今日はダメ」と言って一緒に連れて帰らなかったらしい。その帰り道だ。
中野の踏切が壊れてて、電車にはねられたのは。
それでおふくろは死んだんだ。
戦争が終わる前の年1944(昭和19)年10月16日のことだ。
あのとき一緒に帰ってたら俺も死んでたんだろうな。
おふくろを亡くしたショックで、親父はすぐ田舎へ帰って来た。
「とても一人では店はやれない。女房と一緒だから出来たことだ」って
店も始末してな。それで親父と、ばあちゃんと俺たち兄弟4人の
富士宮での生活が始まったんだ。
家は総ヒノキ造りで、敷地が1000坪くらいあって、
銅板で葺いた塀付きのものすごく広い家で、地元じゃ有名だったよ。
でも中身は空っぽ。貧乏だった。
親父の代で爺さんの財産をみんな食いつぶしちゃったからな。
親父は当時としては珍しく明治大学を出てたんだけど、
仕事のできる人間じゃなかった。
酒屋だって爺さんの考えでやったらたまたま当たっただけだ。
潔癖症で、商売には向いていなかったんだろうな。(略)
その後もホテルや食堂といろいろ経営したけど、
全部失敗、結局これといった仕事にも就かず、
爺さんの田畑や山林をみんな食い潰したんだ。
ところがこの親父が酒癖悪くて、一杯飲むと大狂いになっちゃうんだな。
酒乱、はっきり言えばアル中だ。
ばあちゃんを、自分の母親をいじめるんだ。「このくそ婆あ」って。
だから親父が飲んで帰って来ると、ばあちゃんと俺は外の馬小屋へ逃げて、
何時間も何時間も。
真冬の寒い中、ばあちゃんにワラと一緒に抱かれてさ。
顔見せるとダアッと親父にやられるから。怖かったよ。
小学校1年の時なんか、糞溜めに入れられたことがあるんだから。
田んぼに肥料でまくあの糞だよ。
ばあちゃんが出かけるときに「一緒に行きたい」とか、
俺がちょっとぐずぐず言ったら「このうるさい小僧が」って放り込まれたんだ。周りの人がびっくりして、わあっと体を洗ってくれたよ。
そういう記憶がさ、あの歌「♪♪酔ってくだまく父さの声を・・・」
(母恋吹雪=唄・三橋美智也)を聞くとよみがえるんだ。
「母ちゃんなんでおいらを残して死んだんだ」っていう。
兄貴はみんな3つずつ年が違って、一番上とは9歳離れていた。
俺は「仕舞いっ子」だもんで、5,6歳のころから飯を作る手伝いをしててさ。冬はしもやけでぼろぼろだ。
当時はシューズなんてもんは金持ちしか履いてなくて、俺なんかは下駄だ。
冬なら足袋を履くんだけど家にはその足袋を買う金もないから、
いつも素足だ、真冬でも。
冬場になれば風呂も3日に一度ぐらいしか入れなくてさ、
ても洗わんでいるもんで、手足によく皸(あかぎれ)が出来たんだよ。
指先がこうピッと切れてね。あの痛さは今でも覚えてる。
夜になると、親父が酒買って来いっていうもんだから、
空瓶を持って焼酎を1合か2合量り売りでよく買いに行った。
1キロぐらい先に酒屋が有って、田舎だからそれぐらい行かないと
店がないんだ。
それである日、小学校3年ぐらいだったかな。
ふと見ると道が真っ暗で見えなくなった。
しょうがないから手探りで買いに行って、何とか帰って来たんだけど、
次の日、親父に「夜になると目が見えなくなる」って言ったら、
さすがに心配したみたいで、医者に連れて行ってくれた。
そしたら栄養失調でさ、要するにカルシウムが不足してて、
鳥目になってたんだな。すると親父は煮干しを山ほど買って来て、
毎日、飯の代わりに食わされていたよ。それで治った事は治ったんだけど、
それぐらい飯もない、栄養もない生活だったんだ。
その頃の食い物といったら「すんばく」って言ってたけど、
麦ばっかりの御飯だ。朝昼晩すんばくだ。
米は全く入ってない。それかぞうすいだ。それが正月になると、
ちょっとだけコメが入っててさ。「米ってこんなにおいしいもんか」
と思ったよ。そこに卵の一つもかけて食ったら、
「世の中にこんなうまいメシがあるのか」というぐらい感激してさ。
そんな貧しいくらしだった。
小学校5年の時に、ばあちゃんが死んだ。富士宮の田舎の人でね、
ただただ優しい人だったよ。よく可愛がってくれて、
俺はばあちゃんっ子だった。だからばあちゃんが死ぬまではまだ良かったんだ。
飯も作ってくれたし、頼めば足袋も履かせてくれた。
でもばあちゃんがいなくなった後は、
完全な男所帯になって俺がずっと飯当番だ。親父の飯も、
兄貴たちの飯も俺が作ってたんだ。よーいドンで飯を食い始めると
兄貴たちは競争だ。
ババッと食って、残ったものを誰が取るかなんて
食いっこをやるから俺には何もなくなっちゃう。
何かの時に兄貴たちに蔵に閉じ込められたこともあったよ。
3日ぐらい何も食わせてもらえなくて死にそうになって・・・
まあ小学校の間はそんな厳しい生活が続いた。
親父は飲ん兵衛で、ロクなもんじゃなかったしさ。
だから自分んで生きることを覚えたな。
腹が減れば隣の畑のイモを盗(と)って焼きイモにして食ったりね。
新聞配達もしたし、納豆売りもやった。納豆は一つ売ってもうけが2円だ。
10個売れば20円になるから、それでノートや鉛筆を買ったんだ。(略)
いつかこの親父や、兄貴らに「居直ってやろう」と思ってたわけだ。
いつかはガツンとやってやるって力を蓄えていた。
それで中学1年の時、兄貴たちに何かでひっぱたかれた時に
後ろから竹の棒かなんかで頭をバーンとやって。
それからはあんまり苛(いじ)められなくなった。
そう云うのが、「居直る」ってことなんだ。
あれが俺のチンピラ人生の始まりだったんだろうな。
ただ云っとくけどそこに憎しみはなかったんだよ。
小学校の間中ずっと、ああいう抑圧された環境の中で育ったから、
その反発が大きく出ただけのことで、抑圧が大きければ大きいほど、
「クソ親父」「クソ兄貴」という反発心が膨らんでいっただけだ。
世の中みんなそうだろ?中国がチベットをイジメてる今の問題にしたって、
会社の上司や、オーナーに対する社員の不満だってさ。
人間はみんな大なり小なり、抑圧されりゃあ反発するんだよ。
抑圧されっ放しでじっとしてたら、
これは荷馬車引きみたいなもんでさ、一生、浮かばれんわ。〜〜
後藤忠政…
オウムの覚醒剤の密輸に絡んでいたヤクザ。
自分の縄張りの富士宮、上九一色村をオウムに売ってやったヤクザである。
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つづく…
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【日本の戦争麻薬ビジネス④】隠匿物資(M資金)/政商・後藤幸正(祖父)とヤクザ・後藤忠政(孫)
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