●台湾人科学者は日本極右の傀儡
杜祖健(子)はオウム麻薬ビジネスを隠蔽❗️
杜聡明(父)は台湾総督の麻薬ビジネスを隠蔽❗️
BC兵器の専門家で、
現在は加計学園の千葉科学大の危機管理学部教授となった(2004年〜)
台湾人科学者のTu博士(杜祖健)は、
松本サリン事件発生時、科警研から依頼を受けて、
米陸軍から「土壌の中のサリンの残留物の検出方法」の資料を入手し、
日本の警察に渡し協力した。(1994年9月21日)
Tu博士の協力によって、
日本の警察は、上九一色のオウム施設付近の土壌を採取し、
検査することによって、オウムが犯人である科学的証拠をつかんでいた。(1994年10月初)
しかし、日本の警察は、即、裁判所に捜査令状を求め家宅捜査に入るべきところ動かず、
オウムは、地下鉄サリン事件を起こしてしまった。(1995年3月20日、午前8時頃)
日本の警察が動いたのは、地下鉄サリン事件の2日後
全国のオウム施設計25箇所を家宅捜査。
自動小銃や、軍用ヘリ、麻薬、
サリンの製造過程で使用される薬品も発見された。(1995年3月22日)
Tu博士は、2011年から年に1–2回づつ、
中川智正死刑囚に接見して、
vxガス、サリン、炭疽菌、ボツリヌス菌などのBC兵器テロについて質問し、
中川が世界で唯一のvxガスによる人体実験の知見を持つ医師であることの希少性に着目。
彼の知見は記録されるべきであるして、
中川と共同執筆で論文を書く予定だと発表した。(2017年11月)
監房の中で中川が書いた「化学兵器」「ドラッグ」の製造表
死刑囚である中川と接見できるのは、
親族など基本的に規則で定められている以外では、
CNASの元米海軍長官のRichard Danzig氏とTu博士だけが許されている。
CNASとはジャパンハンドラーのカート・キャンベルが設立した
安全保障問題を専門に扱うアメリカのシンクタンクである。
上の画像のように、中川がTu博士に報告していたのは、
「化学兵器」だけではなく「ドラッグ」の製造についてであるが、
Tu博士がTVや講演など公に語るのは「化学兵器」についてだけで、
なぜか「ドラッグ」については語らない。
オウムの「ドラッグ」犯罪を無視するTu博士の態度は、
Tu博士の父、杜聡明もまたアヘン、モルヒネ、毒蛇の専門家であり、
日本の台湾でのアヘン政策に協力し勲章まで得た人物であり、
Tu博士が父と同じ毒性学の分野に進んでことから見ても、
いかにも不自然である。
杜聡明は、日本の台湾統治時代の政府からアメリカの国際会議で
日本が台湾でとった「アヘン漸禁政策」を
正当化する講演をするように命じられ、(1926年7月)
NY timesに「政府の麻薬販売をするのが良策」と報じられるなどしたが、
のちに、台湾人有識者から顰蹙をかい 国連に告訴された。(1929年3月)
「アヘン漸禁政策」は、全面禁止ではなく政府の専売とし、
専売所が売り認可された者だけが買って吸引できるというもので、
決して中毒者を減らす作用は齎さなかったが、
この莫大なアヘン収益は、公然と占領地の軍の行政費に当てられていたのだ。
さらに 杜聡明は、台湾総督府専売局からの要請で
アヘンとその反応実験などの研究を行った。(1929年4月)
その後、朝鮮、満州、上海に出張し、アヘン中毒実況も調査した。
台北のマラリア患者収容施設にアヘン中毒患者を収容し、
この施設に実務を行った。(1930年1月)
国際的な批判を受けてようやくアヘン中毒者矯正事業が行われたのは
1930年以降だったのだ。
父の杜聡明がここまで深く日本の台湾でのアヘン政策に協力しており、
その約80年後に、自分自身がオウムという
前代未聞の日本のテロ組織の犯罪究明に関わり、
オウムが組織の資金源として、また信者の洗脳の道具として
国際的な麻薬ビジネスを行っていたことに無関心でいられるだろうか?
オウムの犯罪のうち、「覚醒剤の製造密輸密売」は、
莫大な資金源になっていたと考えられるが、
検察警察はこれを捜査せず、事実を隠蔽していることはさらに大きな疑惑だ。
1995年4月24日、山口組系羽根組の構成員の徐裕行にTVカメラの前で
刺殺された村井秀夫は、
記者会見で「教団の総資産は1000億円である」と語っていた。
オウムの「覚醒剤の製造絵密輸密売」は、
オウム内部に潜り込んだ統一教会や創価学会、
指定暴力団 山口組二次団体・後藤組(組長 後藤忠政)が絡む国際犯罪であるという
疑惑がもたれている。
●CIA傀儡(A級戦犯 統一教会 創価学会)と
オウムは同根❗️
富士の麓の同じ穴の貉
そもそも、ABC兵器を開発しようとしていたオウム施設があった上九一色村は、
CIAと結んでいる「笹川財団」の所有地である。
笹川良一が日韓の反共の連盟を作ろうと、統一教会の分鮮明をはじめ、
両国の裏首脳、CIAエージェントを集合させ、「勝共連合」を組織した場所でもある。
オウムは静岡県富士宮市狩宿に印刷所ももっていたが、
ここは「後藤組」の関係会社から借りた場所だった。
上九一色オウム施設は、「米軍キャンプ富士」にも近い場所で
富士山を囲んでこの3点で三角形が描ける。
これらは「横田ラプコン」の範囲内でもある。
また、笹川と同じくCIAスパイだった岸信介の別荘も
これらとほど近い河口湖畔の鳴沢村にあった。
現在、鳴沢村の別荘は安倍晋三が受け継いでおり、
折々の重要案件の謀議のためのアジトとなっている。
つまり、この富士の麓は、米軍占領体制とその傀儡の牙城なのだ。
*1967年7月、山梨県の本栖湖畔の「全国モーターボート競走会連合会本栖研修所」に
日韓両国の反共首脳が集まり「第一回アジア反共連盟結成準備会」を開催。
統一教会、文鮮明と劉孝之(ユ・ヒョウジ)、
日本側は全モ連・日本船舶振興会(現・日本財団)の笹川良一、
児玉誉士夫代理の白井為雄、市倉徳三郎らが集まり反共団体設立に向けて会合を持つ。
1968年1月世界反共連合が韓国で発足。
1968年4月日本支部が設立され岸信介氏が加わった。
【参考①】
『オウム事件は終わらない』―カルト宗教と日本社会: オウム問題を考える議員の会
◯石井紘基 (民主党衆議院議員2002年10月25日暗殺された)の発言
「オウムは統一教会をラジカルにしたもの」
「オウムが行く前に統一教会が、ロシアに進出していました。
ところが、そういう連中が、どうも何時の間にかオウム信者とすりかわってしまった。」
【参考②】
第078回国会 外務委員会 第4号 昭和五十一年十月二十一日(木曜日)
○田英夫君 いまおっしゃった、公表されたフレーザ委員会の公聴会の議事録、私どもも実はそれを手に入れて検討をいたしましたが、この中にさまざまなことが出てくるわけです。つまりアメリカにおける統一神霊協会、そしてそれと一体と言われるKCIAの活動、たとえば、やはり同じ委員会での三月十一日から二十五日の間に行われた統一神霊協会とKCIAの関係を述べる何人かの証言の中で、これはいま言われたレイナード証言ですけれども、田中前総理が訪米をするときに、やはりこの統一神霊協会の連中が抗議のデモをやる計画を立てたということも証言をされているわけです。
そこで、警察庁の方は担当でないとおわかりならないかもしれませんが、この統一神霊協会、そうして勝共連合というものを警察はどういう態度で受けとめておられるのか。
○説明員(柳館栄君) 私も新聞その他で知っている程度の知識しか持ち合わせておりませんので、まあ警察庁としてどう対応するかということについては、大変役人的でございますけれども、所管外でございますので発言を差し控えさしていただきたいと思います。
○田英夫君 これは、たとえば警視庁が昭和四十四年に作成された報告書の形のものですが、国際は恐ろしく何といいますか、勝共連合を評価するような言葉が出てくるわけですね。これはもう私などの感覚からすれば大変驚いてしまう、そういう態度でいいのかどうか。一方で、日本における財政部長という肩書きを持っている曹又億万という男は警察から指名手配をして、明らかに犯罪を行っておるという、この辺のところの感覚は私は狂っていると思いますよ。
たとえばこのフレーザー委員会における証言の一つ、元在米韓国大使館付武官であった、これは非常にむずかしい字で、ちょっと読みにくいのですけれども、朴普煕と読むのでしょうか、その男と非常に親交のあったというロバート・ロランドというユナイテッド航空の人物の証言の中に、一九六七年七月に文鮮明という――文鮮明というのは御存じのとおり統一神霊協会の教祖と称しておる男です。現在アメリカにおりますが、この文鮮明が世界反共連合を設立するために日本の山中湖畔で児玉譽士夫、笹川良一と会合をしたということをこのロランド氏は証言をしています。そうしてこの証言によると、この会合の結果、世界反共連合というものが一九六八年の一月に韓国に本部を持って発足をし、同年、六八年四月には日本支部が設立され岸信介氏がこれに加わった、こういうことを証言をしていますが、これはフレーザー委員会の証言の中に出てくるわけですけれども、その点は外務省は把握しておられますか。
●麻薬ビジネスで賄われた日本の汚れた戦争
日本軍が蝕んだ大東亜“麻薬汚染”圏❗️
1894年(明治27年)~1895年(明治28年) 日清戦争
日本と清国(中国)が李氏朝鮮を巡って起こした戦争。日本の勝利。
清から台湾を割譲された台湾でのアヘン対策として「漸禁政策」を打ち出し、
政府はアヘン専売制を行い巨額の富を得た。
内地(和歌山県、大阪府)と朝鮮では、ケシ栽培も行い、
生産地と消費地を区別しの管理・統制を効率的に行い利益の最大化を図った。
1904年(明治37年)~1905年(明治38年) 日露戦争
日本とロシアが朝鮮半島や満州を巡って争った戦争。日本の勝利。
日本の租借地となった中国 遼東半島関東州でも、台湾と同じく、
アヘン専売制をとった。
1914年(大正3年)~1924年(大正13年) 第一次世界大戦(シベリア出兵を含む)
三国同盟(独・オーストリア・伊)と三国協商(英・仏・露)の対立による世界戦争。
日本は日英同盟から協商側として参戦。
第一次世界大戦の勃発で、麻薬として輸入していたモルヒネが供給されなくなり、
国産化に踏み切る。1915年、星製薬(星一)がモルヒネの製造に成功。
大戦が終結し、量産化していた製薬会社のモルヒネの在庫を捌くために
植民地の朝鮮(1910年韓国併合)でモルヒネの販売制限を緩和した。
アヘンは禁止だがモルヒネは許可し朝鮮ではモルヒネ中毒患者が10万人規模となった。
1937年(昭和12年)~1945年(昭和20年) 日中戦争(支那事変)
日本と中国(中華民国)による戦争。日本が降伏し終戦。
日本の中国各地の傀儡政権の満洲国、蒙疆政権(内モンゴル)、冀東防共自治政府、
汪兆銘政権(南京国民政府)などでは、全てアヘンの専売制をとった。
満洲国では、主に熱河省でアヘンが生産され、ほかの地域に供給された。
生産地と消費地を区別し、管理する手法も流用された。
例のないほど大規模なアヘンを生産・販売・使用した日中戦争の実態は、
まさにアヘン戦争だった。
1941年(昭和16年)12月8日〜1945年(昭和20年)8月15日 太平洋戦争
日本と連合国(米・英・オランダ・中国)などとの戦争。
広島・長崎への原爆投下とソ連の参戦によって日本がポツダム宣言を受諾、無条件降伏。
南下した日本軍は東南アジアでもアヘンの専売に着手した。
シンガポールでは英国のアヘンを押収し精製工場を復旧して、
マレー、スマトラ、ボルネオなどに製品を供給し、莫大な軍費を稼いだ。
一方で、1940年代に入ると日本本土で覚醒剤が蔓延しはじめた。
覚醒剤の成分は、メタンフェタミンもしくはアンフェタミンであるが、
戦力や労働力の拡大のため軍需品として大量生産され、
メタンフェタミンでは大日本製薬の「ヒロポン」、参天堂製薬の「ホスピタン」、
小野薬品工業の「ネオパンプロン」、富山化学工業の「ネオアゴチン」。
アンフェタミンでは武田薬品工業の「ゼドリン」、富山化学工業の「アゴチン」などである。
1945年8月の敗戦により不要となり市中に流出してしまった。
●台湾の初めての漢民族政権
英雄・鄭成功は日台ハーフ
南西諸島の海賊・境界に生きる倭寇
日本の右翼と中華民国 (国民党 台湾)は、親和性が高い。
1662年鄭成功によって台湾で初めて漢民族政権による統治が行われた。
台湾の「国姓爺(明の君主の名 ”朱” を隆武帝から与えられた)」鄭成功。
鄭成功は日本人の母を持つ。
つまり、漢民族の明の誇りを背負った鄭成功は、
「日本と中華民国のハーフ」というわけだ。
鄭成功は、清に滅ぼされようとしている明を擁護し
抵抗運動を続ける拠点として台湾に渡り制圧して
「鄭氏政権の祖」となった。
鄭成功の父は、平戸を本拠に活躍していた
明国福建省泉州市の海商の鄭芝龍である。
父の鄭芝龍は、海商の李旦の配下に入りその跡目を継いだのだが、
李旦の師匠は、海商の王直で、
なんと、王直は「倭寇」の頭目だったのである。
倭寇は、前期と後期に分けられ、
前期は、主に瀬戸内海・北九州を本拠とした日本人で一部が高麗人であったが、
後期は、明の海賊禁圧や密貿易防止のために
マレーシアやタイに移住した浙江省、福建省出身の中国人が多数派となり、
一部に対馬、壱岐、松浦、五島、薩摩など九州沿岸出身の日本人がいるという形になった。
王直は後期の倭寇であった。
王直は博多商人と交易したが、倭寇の取締りを恐れて、
五島、やがて、多くの海賊が移り住んだ平戸藩に招かれて邸宅を構え、
ポルトガル船を水先案内して初めて平戸に来航させ
ポルトガル貿易の始まりとなったという。王直はまさに海賊王だったのである。
倭寇の海賊王3代目とも言える鄭芝龍は、日本の肥前国(長崎)平戸藩士の娘を娶り、
鄭成功は平戸で生まれ、7歳で父・芝龍の故郷に戻った。
一族は、泉州府の厦門島、金門島などを根拠地に密貿易を商い、
政府軍や商売敵との抗争のために私兵も持っていたという。
最高学府 国子監の入試に受かり科挙の受験資格を持つ生員となっていた。
鄭成功は明滅亡後も抵抗したが清の攻撃を受け1683年に降伏した。
鄭氏政権は、わずか20年の短命で終わった。
●【台湾】清統治→日本統治→中華民国統治
イヌが去ってブタが来た
台湾は、清(満州族)の統治下の後、
1895年に日清戦争の日本の勝利によって日本の植民地(下関条約)となった。
1912年孫文(漢民族)によって国民党の中華民国が南京に設立された(辛亥革命)が、
清の軍人・袁世凱が政権を奪い北京に政府を移し、
独裁政治によって自ら皇帝に即位し帝政を実現しようとしたが、
学生デモや軍閥の抵抗に合いこれに失敗。
袁世凱の病死。これを契機に中華民国北京政府の統制が失われ
内戦状態となっていた軍閥時代には、米英日ソ列強が入り乱れて
各地の軍閥と結んで背景勢力となっていた。
中国国民党は、軍閥や北京政府に対抗するため、
中国共産党と共同戦線(国共合作)を張った。
1925年、孫文が死去。蒋介石が孫文の後継者となった。
1926年以後、蒋介石の指導の下に北伐を行って軍閥政権との戦いを続けた。
しかし急激な勢力拡大と反共的な蒋介石の支持者や経済界の不満を抱かせ、
1927年4月蒋介石は共産党勢力や労働組合の粛清を図った。(上海クーデター)
同年4月18日南京に南京国民政府を樹立。
蒋介石は北伐(北京政府打倒)を決し国民党による統一を目指した。
一方で蒋介石の権力に不満のある軍閥は共産党に加わった。
満州と北京政府を支配していたのは張作霖である。
張作霖は日本軍と結んで軍閥をひきい中国東北部を牛耳っていたが、
1928年6月国民党軍の北伐に合い、奉天に逃げる途中、
関東軍の謀略による列車爆破で死亡した。(張作霖爆殺事件)
息子の張学良は蒋介石と提携。軍閥政府の根拠地である北京を陥落させた。
1928年10月、蒋介石は全国統一を受けて国民政府主席に就任。
1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破され、
関東軍は張作霖の息子の張学良の奉天軍によるものとして満州全土を占領。
内閣の不拡大方針にも応じず暴走し、15年の侵略戦争の日中戦争へ突入していった。
満鉄爆破は関東軍の謀略だった。(満州事変)
1932年、清朝最後の皇帝溥儀を執政として日本の傀儡国家・満州が建国された。
首都は新京(長春)。1934年に溥儀の皇帝即位によって帝国とした。
1936年12月、張学良は内戦停止・抗日戦を要求し、
共産党の掃討を優先する蒋介石を誘拐監禁した(西安事件)が、
共産党・周恩来の仲介により蒋介石を解放し、それを機に抗日の第2次国共合作となった。
1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で夜間演習中の日本軍が実弾射撃音をきっかけに、
中国軍と戦闘になった。(盧溝橋事件)
満州事変、盧溝橋事件を契機として、
中華民国と日本は全面戦争(1937年日中戦争)を開始。
1941年、日本は真珠湾攻撃で第二次世界大戦に突入。
1945年4月、米軍が沖縄本島に上陸。3ヶ月の地上戦で県民1/4が犠牲になった(沖縄戦)
1945年8月6日、広島にウラン型原爆投下。
1945年8月9日、長崎にプルトニウム型原爆投下。
1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾。
1949年8月15日、連合国側に無条件降伏終戦。
日本の降伏後、中華民国は台湾の統治を引き継いだ。
中国共産党と中国国民党国の内戦の後、
中国共産党は中国大陸を完全に支配し
1949年には中華人民共和国を設立し、
蒋介石の国民党は共産党との内戦に敗れて台湾へ逃れ中華民国政府を台湾に移転した。
先住の台湾の人々は「犬(日本軍)が去って豚(中華民国軍)が来た」と言って嘆いた。
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【日本の戦争麻薬ビジネス②】オウム薬物ビジネスを隠す人々 (日本と台湾のCIA傀儡たち)
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