まるでスパイ映画のような話だ。
ロッキード事件…
児玉誉士夫は衆議院での証人喚問が行われる直前に、主治医による薬物の注射で、「昏睡状態」を偽装していたのだという。
児玉の証人喚問直前、主治医から「児玉は脳血栓による脳梗塞の急性悪化状態にある」との診断書が出され、国会が医師団を結成し診断したところ、主治医の言う通り「重症の意識障害下にあり証人喚問は不可能」な状態だった。
しかし、実際には、1976年(昭和51年)2月16日、児玉の主治医である喜多村孝一が、国会医師団の先回りをし、児玉に薬物を注射し、昏睡状態にせしめたのだという。
喜多村孝一は、強力な睡眠剤フェノバールと、やはり強力な睡眠剤のセルシンを同時に使用し、昏睡状態が生じさせた。この昏睡状態は、重症脳梗塞による意識障害と酷似している。
おかげで児玉ルートに繋がった中曽根は、検察の追及を免れた。
高名な医師が手を染めた信じられないような犯罪。
しかし、この国の医療の原点は、「731部隊」にあるのだ。
2021年4月16日、ガースーが訪米し、日米首脳会談後の共同声明に「台湾有事」を想定した「台湾海峡の平和と安定の重要性」が明記された。
1972年3月23日衆院予算委で、当時通産大臣だった田中角栄は、こう言っていた。
「二つの中国をつくる陰謀には加わらない。」
「台湾独立運動などには関与しないし支援しない。」
「日中国交正常化の第一番目に、たいへん御迷惑をかけました、心からおわびをしますという気持ち、やはりこれが大前提になければならないという気持ちは、いまも将来も変わらないと思います。」
「日中両国、二千年の歴史の上に立つ日中をもとに戻そう、もとよりももっとよくしよう。」
全くその通りだと思うし、そういう態度で、悲惨な戦争は回避して欲しい。
角さんの愛弟子の小沢さん、鳩山さんにもう一度頑張ってもらいたい。
(公式)第167回UIチャンネル放送 鳩山友紀夫×朝賀昭(政経調査会会長)
「今なぜ田中角栄なのか-日中関係そして沖縄-」(前篇)
(公式)第168回UIチャンネル放送 鳩山友紀夫×朝賀昭(政経調査会会長)
「今なぜ田中角栄なのか-日中関係そして沖縄-」(後篇) 2016/10/03
朝賀昭氏プロフィール
昭和18年(1943年)東京生まれ。都立日比谷高校時代に田中角栄自民党政調会長(当時)の知己を得て、中央大学法学部を卒業した昭和41年に正式に秘書となる。
以後、田中角栄氏に23年間側近として仕えた秘書。田中派秘書1000人を束ね、政策実現、選挙の強さで他に類を見なかった田中軍団を支える。その情報収集力、実行力、交友関係の広さは、ずば抜けており、現在も数多くの政治家が指導を仰ぐ。
今年最大のベストセラーとなっておる田中角栄元総理を描いた石原慎太郎著「天才」は、朝賀昭氏の著書「田中角栄最後の秘書が語る情と智恵の政治家」(www.amazon.co.jp/dp/4474029178)や朝賀昭氏のインタビューをもとに構成された「角栄のお庭番 朝賀昭」(www.amazon.co.jp/dp/4062187507)の内容が主な参考文献となっている。
田中角栄元総理が再び脚光を浴びる中、テレビ番組への出演や、日刊ゲンダイの連載で側近として仕えた秘書であった朝賀昭氏しか知りえない田中角栄元総理の実像を語る。
朝賀昭氏による話は、まさに日本政治史に残る歴史の瞬間の真実であり、「お庭番」であることからと最近まで表舞台に登場することを控えていた朝賀昭氏の話により明らかになった新事実も多い。
(この放送は2016年9月19日に配信されたものです。)
国会議事録
第68回国会 衆議院予算委員会第四分科会第4号
昭和47年(1972年.)3月23日
https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=106805270X00419720323¤t=1
(一部抜粋)
分科委員 川崎秀二君
通商産業大臣 田中角榮君
○川崎(秀)分科員
日中国交回復は、先ほど小林分科員からいろいろお尋ねでございました。小林さんは日中議員連盟の事実上の幹事長役として非常に御活動であり、裏のことも知っておられるので、吉田書簡の廃棄ということについて正面から、からめ手から、何とか答弁を引き出そうと努力をされておるのを拝見して、ずいぶん御苦労なことだと思っておりますが、これに対応する田中通産大臣の御答弁も、佐藤内閣という重しもございまして、非常に御苦心の御発言であるというふうに私は思うのであります。
ただ、私はこの際田中通産大臣にぜひ知っていただきたいことは、やはり経済上の問題は政治の原則よりはあと回しである、何ぼ努力してみましても、たとえば吉田書簡を廃棄してみましても、これはそうでございますね、ニクソンが昨年の七月十六日に訪中するということを決定する前でありましたら、いささか効果のあることだと私は思っておるのでございます。その後はもうすっかり向こうの考え方も、次期内閣を相手にして処理をするということに一切の方針をきめておりますので、したがって何といっても政治三原則、政治三原則の中の台湾条項というものに対する割り切った考え方がなければ日中国交回復というものは成立しない、それが第一である。その先行として平和五原則、平和五原則と政治三原則の台湾条項のからみ合いというようなものが重要でございます。これは御答弁をわずらわすのは、非常に苦しい立場のことでございますから、ただ、政治三原則と平和五原則のほうがはるかに重要であるという私の所説に対して、田中通産大臣はどう考えられておるか。これは現在のポイントである、というよりは少し時局を——写真機ではございませんが、フォーカスは時局の方向に合わせてでもかまいませんから、御答弁をいただきたい。
○田中国務大臣
日中間の国交正常化をはかりたいという、もう自民党内閣としては決定をいたしております。また、この中国の敵視政策をやめろということは、敵視政策をとっておりません。これは全く友好親善でまいりたいということでございます。二つの中国をつくる陰謀には加わらない、これはもう全く台湾独立運動なんというものはやりません。政府は、このような動きには関与いたしませんし、一切支援などいたしません、こう言っております。日中両国間の正常関係の回復を妨げないこと、これはもう当然のことだと思います。だからいろいろな問題の中で、過去の長い歴史の中にあるこの国民政府との問題、台湾の問題、俗に言う領土の問題、これが一番大きな問題であろうと思いますが、これはもう日中国交正常化の時点でなにしていく、またそうするということ以外にはないのじゃないかということは、佐藤内閣もいろいろの御質問に対して申し上げておるところであります。
これは二年ぐらいかかったカナダと中国との問題のときも、中国と国交回復をすること、すれば、唯一の政府と認めるというのは国交回復ということでございますし、台湾政府というものはどうだと言ったときには、これは正常化ができれば消滅をした問題であるということでございます。第三の問題の領土はどうかという問題、これが二年のうちの十分の八ぐらいかかったようでございます。しかしテークノートしますということで、世に言うテークノート方式がとられたわけでございます。今度は、ニクソン訪中によるニクソン・周総理の声明に対しては、これはもう一歩進めたような大きな字で、テークノートをするというくらいに前進をしたわけでございます。日本は「理解しうる」ですからもっと前進しているわけで、これはもうお隣でございますから、そういうことで、これはなかなか、いまこれをどうこうするといっても、どなたが政権をとられても日本人全体の問題としてやはりこれを議論していかなければならないし、日中両国、二千年の歴史の上に立つ日中をもとに戻そう、もとよりももっとよくしよう、こういう考えが前提になっておりますから、そういう中で消化していくということでないと、私がどんなことを言っても、どういたしますという明確なお答えがなかなかできない、そのくらいむずかしい問題だ、あなたもいまここでおすわりになっておると思って、実は御理解を願いたいと思います。
○川崎(秀)分科員
私は、ただいまの御答弁の上に、さらに時期の問題もございますが、やはり台湾問題、日華平和条約の廃棄という姿勢を明確にとるということでなければ、日本の場合はなかなか困難である。カナダとかその他とは、日本と中国との関係は違うということを御認識をいただいて、その御答弁は今日はいただかないことにします。私が、次期政局を見通して、田中通産大臣にもたいへん大きな期待を抱いておりますることは、いつか古井君が中国へ参ります際に、党内におきましていろいろ議論があった。その際に、ちょうど私が幹事長室へ参りましたら、雑談の中における田中幹事長のお話の中に、日中国交回復まではやはりわれわれはひけ目がある、土下座外交は困るけれども、中国に対してはやはりこちらは戦争の責任について贖罪をしておらぬ、こういうことを明快に言われたことです。これは当時は、現在の次期総裁候補者と見られる者のうち、十分な認識をしておらぬ者も散見されるように思っておりますが、これはおそらく戦争中召集兵士として非常に苦惨もなめられ、その中において今度の日中国交にあたっては、何としてもやはりあのいまわしい戦争における日本の大陸進出、向こうから言わせれば侵略ということに対しての償いというものをしなければならぬという考え方があなたにあられるということを私は看取したわけであります。そういう心がまえで今後臨まれるならば、日中国交の第一の難関というものは乗り越えられるのではないかという感じが非常にいたしております。まあ現在の内閣がどうなるか、まだ私は知りません。しかし、すでに常識的な世論の大勢がもうあるわけでございますから、その中において、自局党の従来の体質を脱皮するためにも、庶民的なカラーを持つ党人的な内閣というものが生まれてほしいというのが、私の非常な強い念願でございます。そういう意味での期待感も持っておりますので、この日中国交にあたっての贖罪意識というものがこの機会に明快に公にされることはたいへんいいことではないか。私の質問はこれで終わりますから、ぜひ明快な御答弁をいただきたいと思います。
○田中国務大臣
私も昭和十四年から昭和十五年一ぱい、一年有半にわたって満ソ国境へ一兵隊として行って勤務したことがございます。しかしその中で、私は人を傷つけたり殺傷することがなかったことは、それなりに心の底でかすかに喜んでおるわけでございますが、しかし私は、中国大陸に対してはやはり大きな迷惑をかけたという表現を絶えずしております。これは公の席でも公の文章にもそう表現をしております。迷惑をかけたことは事実である、やはり日中国交正常化の第一番目に、たいへん御迷惑をかけました、心からおわびをしますという気持ち、やはりこれが大前提になければならないという気持ちは、いまも将来も変わらないと思います。日中間二千年の歴史、もっともっと古いかもしれません。しかも日本文化は中国文化によって育ったということでありますし、同じ基盤に立つ東洋民族でもございますし、恩讐を越えて、新しい視野と立場と角度から日中間の国交の正常化というものをはかっていかなければならないのだ、そういううしろ向きなものに対してはやはり明確なピリオドを打って、そこで新しいスタートということを考えていかなければならないだろう、私はすなおにそう理解しておりますし、これが中国問題に対する一つの信念でもあります。
田中角栄、ロッキード事件40年後の「驚愕証言」【前編】2016.08.02 07:00
週刊ポスト
https://www.news-postseven.com/archives/20160802_434677.html/2
田中角栄、ロッキード事件40年後の「驚愕証言」【後編】
2016.08.03 07:00
週刊ポスト
https://www.news-postseven.com/archives/20160803_434844.html?DETAIL
↪︎(抜粋)
田中角栄・元首相が逮捕された「戦後最大の疑獄事件」、ロッキード事件発覚当初から、児玉誉士夫氏は「病気」を理由に証人喚問を拒否していた。
国会は1976年2月16日、病状確認のために医師団を児玉邸に派遣した。結果、児玉氏は「重度の意識障害」と診断され、喚問は見送られることになった。
7月上旬、『田中角栄を葬ったのは誰だ』(K&Kプレス刊)を上梓した、事件当時、衆院議長秘書を勤めていた平野貞夫氏(元参院議員)が振り返る。
「私は当時、児玉氏が中曽根(康弘)氏を守るために、自分の意志で証人喚問を拒否したと思っていた。しかし、その判断が間違っていたことに、後になって気付いた」
そのきっかけは、ひとつの告発記事だった。『新潮45』(2001年4月号)に掲載された記事で、児玉氏の主治医・喜多村孝一東京女子医大教授(当時、故人)の部下だった天野惠市氏(当時、同大助教授)の手記である。天野氏はその中で、国会医師団派遣直前の喜多村氏の行動を暴露した。記事には1976年2月16日の午前中、東京女子医大の脳神経センター外来診察室での出来事が克明に記されている。
〈立ったままの喜多村が、切り出した。
「これから、児玉様のお宅へ行ってくる」
喜多村は、児玉を必ず、「児玉様」と呼んだ。〉
天野氏が訝りつつその理由を聞いた後の2人のやり取りは以下の通りだった。
〈「国会医師団が来ると児玉様は興奮して脳卒中を起こすかもしれないから、そうならないように注射を打ちに行く」
「何を注射するのですか」
「フェノバールとセルシンだ」
いずれも強力な睡眠作用と全身麻酔作用がある。
「先生、そんなことしたら、医師団が来ても患者は完全に眠り込んだ状態になっていて診察できないじゃないですか。そんな犯罪的な医療行為をしたらえらいことになりますよ、絶対やめてください」〉
止める天野氏に対して喜多村氏は激怒し、看護師の持ってきた薬剤と注射器を往診カバンに詰めて出ていった──手記にはそう書かれている。
国会医師団が児玉氏を診察したのは、喜多村氏が児玉邸を訪れてから数時間後。そして喜多村氏が国会に提出していた診断書の通り、「重度の意識障害下」にあり、国会での証人喚問は不可能と判断されたのである。
平野氏がいう。
「フェノバールとセルシンの注射で発生する意識障害や昏睡状態は、重症の脳梗塞による意識障害と酷似している。仮に国会医師団が見抜けなかったとしてもおかしくない」
そして、着目すべきは“主治医が児玉邸を訪れたタイミング”だと指摘する。
「私のメモにも残っていますが、2月16日は医師団の派遣を巡って衆議院の予算委員会理事会が紛糾していた。医師団の派遣そのものを決めたのが正午過ぎで、メンバーが決まったのは午後4時。そこから『2月16日の当日中に行くか』『翌日の朝にするか』を協議し、夜7時になって当日中の派遣が正式に決定した。私は議長秘書として医師団派遣の調整に関わっていたので、時系列に間違いはない。
つまり、児玉氏の主治医は、国会医師団の派遣がまだ正式に決まっていない16日午前中に、すでに“医師団が今日中に児玉邸に来る”と確信していたことになる。医師団派遣はいわば機密事項だった。にもかかわらず、なぜ主治医は知っていたのか。国会運営を取り仕切れる中枢にいて、かつ児玉氏の主治医にもコンタクトできる人物が情報を流していたとしか考えられない」
◆「得をしたのは誰だ」
もし児玉喚問が実現していたら、ロッキード事件は違った方向に展開していた可能性がある。丸紅を通じて角栄氏が受け取ったとされるのは5億円。一方、児玉ルートには21億円が流れたとされている。平野氏が続ける。
「児玉氏の証言が得られなかったため、東京地検は狙いを田中さん一人に絞り、逮捕に全力を傾けた。もし当局が児玉ルートにも切り込んでいたら、ダメージを受けたのは中曽根氏だったはず。私は告発記事を読んだ後に天野医師と会って話したが、児玉氏の主治医だった喜多村氏は、その後、“中曽根氏の主治医”を名乗るようになったと証言している」
事件発覚当時から、角栄氏の逮捕に至る流れは、政治的な思惑のある「国策捜査」ではないかとの指摘がされていた。米議会公聴会で疑惑が出た直後の1976年2月9日に当時の三木武夫・首相は、与党内に累が及ぶ疑惑であるにもかかわらず、「なすべきことは真相の究明」と言明。権力側が政界ルートの捜査を検察に促す“逆指揮権”が発動したともいわれた。
そして結果として、三木首相と党内で対立する角栄氏に追及の矛先が向かった。その三木政権を幹事長として支えていたのが中曽根氏だった。
角栄氏が1976年8月に保釈されると、田中派をはじめとする自民党内の反主流派6派閥が一気に「三木おろし」の逆襲を始め、その際に政権サイドについたのが三木派と中曽根派だけだった。当時、自民党内で壮絶な権力闘争があったことは間違いない。
そして時は流れて平成の世になり、2008年に秘密指定が解除された米公文書に、中曽根氏とロッキード事件を結びつける記述が見つかっている。
〈ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があった〉(2010年2月12日付、朝日新聞)
中曽根事務所は平野氏の指摘、米公文書の記述について、「ノーコメント」とするのみ。平野氏が続ける。
「田中さんは物的証拠がないまま、証言だけで有罪になった。政治、捜査機関、司法当局、そしてメディアによって、“田中有罪”という世論の大合唱が作り上げられていった」
なぜ、ロッキード事件では結果的に角栄氏だけが狙い撃ちされたのか。
1972年9月に角栄氏が米国の意に背いて日中国交正常化を実現させ、同時に台湾との国交を断絶したことでホワイトハウスが激怒した―といった「米国の虎の尾を踏んだ説」も根強くある。それを裏付けるような機密解除された米公文書の存在も報じられている。平野氏がいう。
「“虎の尾論”は一面の真実をついているでしょう。ただ、私にできるのは、『対米追従シンドローム』に侵された日本の権力者たちが、田中角栄という政治家を葬ったということを論証すること。それが使命だと考えているから今回、『田中角栄を葬ったのは誰だ』を改めて出版した。事件から40年を機に、国民に目を見開いてほしい」
真実は、どこにあるのか。
※週刊ポスト2016年8月12日号
天野惠市 児玉誉士夫の口を封じた薬物注射
月刊日本 日本の自立と再生をめざす、肉声の言論誌
2016/7/26 2016/12/31
http://gekkan-nippon.com/?p=9317
児玉誉士夫に薬物が注射された事実
―― 天野さんは『新潮45』(2001年4月号)に「児玉誉士夫の『喚問回避』に手を汚した東京女子医大」という手記を寄せられています。その中で、児玉誉士夫は重症脳梗塞による意識障害のために国会の証人喚問に応じられないとされたが、児玉の意識障害の原因は、児玉の主治医だった東京女子医大教授の喜多村孝一が薬物を注射したことだと暴露されています。この点について改めて教えていただけますか。
天野 順を追ってお話ししましょう。昭和51年2月5日、朝日新聞の報道により、米国のロッキード社が児玉誉士夫に21億円もの不正な政治献金を行っていたことが明らかになりました。このお金は児玉を通じて政界にも流れた疑いがありました。そこで、国会はロッキード事件の真相を解明するために、児玉の証人喚問を決定したのです。
ところが、この証人喚問は実現しませんでした。それは、児玉の主治医である喜多村孝一が国会に、「児玉誉士夫は脳血栓による脳梗塞の急性悪化状態にある」という診断書を提出したからです。
しかし、その数日前には、児玉はゴルフをしており、ゴルフ場内のレストランで支払いレシートが見つかったと言われていました。もしこれが事実であれば、喜多村の診断書は嘘ということになります。国会はその真偽を確かめるべく、独自に医師団を結成し、児玉邸に派遣することにしました。
ところが、国会医師団の診断結果は驚くべきものでした。児玉は実際に重症の意識障害下にあり、証人喚問は不可能ということになったのです。つまり、喜多村の診断書の内容は正しいということになりました。
しかし、これには裏がありました。国会医師団が児玉邸に行ったのは2月16日の午後10時頃です。実はその数時間前に、喜多村が先回りして児玉邸に赴き、児玉にフェノバールとセルシンを注射していたのです。
フェノバールは強力な睡眠剤であり、どうしても眠れない患者や、てんかん発作が起きた患者などに使用する薬です。また、全身麻酔をかかりやすくするための前投薬としても使用されます。セルシンも同じく強力な睡眠剤で、患者が興奮状態で手に負えない場合などに使用されます。これらを同時に使用すれば、昏睡状態が生じ、数時間は当然口も利けなくなります。
これらの注射によって生じる昏睡状態は、重症脳梗塞による意識障害と酷似しています。もちろん血液や尿を採取すれば、薬物の存在を確認することはできます。しかし、国会医師団はまさか児玉にこのような注射が意図的に打たれているとは思わなかったのでしょう。それ故、彼らが児玉の症状がこのような注射によるものだと見抜けなかったとしても無理はありません。
(編集部註①)児玉誉士夫の証人喚問をめぐる主な動き
・2月5日 ロッキード事件が発覚
・2月10日 児玉の証人喚問が決定
・2月12日 喜多村が記者会見で、児玉の証人喚問は不可能と発表
・2月14日 喜多村が国会に児玉は脳梗塞だとする診断書を提出
・2月16日 国会医師団が児玉を診断、証人喚問は不可能と結論
児玉が脳梗塞ではないと確信した理由
―― 天野さんはどのようにして喜多村が注射を打ったことを知ったのですか。
天野 喜多村本人が私にそう言ったからです。2月16日の午前中、私は東京女子医大の脳神経センター外来室で患者を診ていました。午前の診療を終え、これから昼食だという時に、私の外来診察室2番に隣接した外来診察室1番の喜多村の診察室から、喜多村の大きな声が聞こえてきました。喜多村は何やらただならぬ様子で往診の準備をしているようでした。
私が「何をされるのですか」と尋ねたところ、喜多村は「これから児玉様のお宅へ行ってくる」と言いました。喜多村は児玉を呼ぶ際、必ず「児玉様」と呼んでいました。
しかし、報道では、近く国会医師団が児玉邸に派遣されると言われていました。「国会医師団が児玉邸に派遣されると言われているのに、何のために行くのですか」と問うと、「国会医師団が来ると児玉様は興奮して脳卒中を起こすかもしれないから、フェノバールとセルシンを打ちにいく」と言うのです。……
以下全文は本誌8月号をご覧ください。
ーーーーーーーーーー
喜多村孝一 陰謀加担疑惑
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脳卒中の外科 喜多村孝一教授
119 〔雑 報〕 O東京女子医科大学学会 第45回総会 日時 昭和54年9月29日(土)8:00~17:00 会場 東京女子医科大学本部講堂 一般演題 40題 〔特別講演〕 「脳卒中の外科」 :東京女子医科大学教授 喜多村孝一
https://twinkle.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=3041&item_no=1&attribute_id=62&file_no=1&page_id=49&block_id=53
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http://zutsuu-daigaku.my.coocan.jp/shiryou/taika.htm
天野惠市氏 証言者
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天野惠市氏
1941(昭和16)年、奈良県大和郡山市生れ。1967年3月東京大学医学部医学科卒業。1968年4月同大学脳神経外科教室に入局。同年7月北米に留学、米国エール大学脳神経外科、カナダ・マックギル大学、モントリオール神経研究所において臨床脳神経外科、神経生理学などの研究に従事。1971年8月帰国。東京大学、東京女子医科大学勤務を経て、現在いくつかの医療機関で脳の医療に従事。1982年よりNHKテレビ医療番組「きょうの健康」などに出演し、脳の医療分野での知識の普及に努めている。医学博士(東京大学)、日本脳神経外科学会専門医、日本集中治療医学会専門医。
ーーーーーー
児玉誉士夫 Wikiより
ロッキード事件
ロッキード事件と児玉の関わりは、しばしばロッキード社または日本の政界という事件の帰着点ばかりが焦点化して報道・出版される傾向がある。しかし、ロッキード社が児玉へ秘密送金する窓口として、元OSS 員が社長だったディーク・ペレラ社を利用したという興味深い事実がある[21]。ディークは外国為替と貴金属取引に特化した企業であるが、21世紀に数件の訴訟を提起されている。その一方、今日ヨーロッパではHSBCやドイツ銀行がやはり外国為替と貴金属取引をめぐり不祥事を露呈している。
ロッキード社の秘密代理人
児玉はすでに1958年(昭和33年)からロッキード社の秘密代理人となり、日本政府に同社のF-104“スターファイター”戦闘機を選定させる工作をしていた。児玉が働きかけた政府側の人間は自民党の大野伴睦、河野一郎、岸信介らであった。1960年代末の契約が更新され、韓国も含まれるようになった。児玉は親しい仲にあった韓国の朴政権にロッキード社のジェット戦闘機を選定するよう働きかけていたのである。韓国に対する影響力の大きさが窺える。しかし、この頃、大野も河野も死亡しており、新しい総理大臣の佐藤栄作や田中角栄にはあまり影響力をもっていなかった[注釈 38]。
そこで児玉は田中との共通の友人、小佐野賢治に頼るようになった。小佐野は日本航空や全日本空輸の大株主でもあり、ロッキード社製のジェット旅客機の売り込みでも影響力を発揮したが、すでに日本航空はマクドネル・ダグラス社製のDC-10型機の購入を決定していたこともあり、その矛先を全日空に向けた。
この頃深い関係を作り上げていた田中角栄が1972年(昭和47年)に首相になると児玉の工作は功を奏し、その後全日空は同機種を21機購入し、この結果ロッキード社の日本での売上は拡大した。さらに全日空は、ロッキードから得た資金を自社の権益の拡大を図るべく航空族議員や運輸官僚への賄賂として使い、その後このことはロッキード事件に付随する全日空ルートとして追及されることとなった。
ロッキード社社長のアーチボルド・コーチャンが「児玉の役割はP-3C導入を政府関係者に働きかけることだった。児玉は次の大臣に誰がなりそうか教えてくれた。日本では大臣はすぐに代わるから特定の大臣と仲良くなっても無駄である。彼は私の国務省だった。」と調書で語っている。
ロッキード裁判
しかし1976年(昭和51年)、アメリカ上院で行われた公聴会で、「ロッキード社が日本の超国家主義者を秘密代理人として雇い、多額の現金を支払っている」事実が明らかにされ、日本は大騒ぎとなった。その後、三木武夫首相によってこの事件の捜査が開始され、すでにこの事件の中心人物と目されていた65歳の児玉は衆議院での証人喚問が行われる直前に「発作」を起こし、床についた。
しかし、間もなく児玉は脱税と外為法違反で在宅起訴され、裁判に臨むことになった。1977年(昭和52年)6月に一度公判に出廷した後は脳梗塞と後遺症を理由に自宅を離れなかった。 1979年(昭和54年)10月11日には3人の裁判官、検察官、弁護士が自宅を訪問して臨床尋問が行われた。「臨床」とはされたが尋問は自宅の洋間で行われ、児玉は和服を着て椅子に座って応答している。検察は小佐野との関係、ロッキード社のコンサルタントになった経緯を尋問したが、1時間ほどで児玉が喉の苦痛を訴えて取りやめとなった。
元総理の田中角栄は収賄容疑で逮捕され、1983年(昭和58年)10月に有罪判決が出された。児玉は死期が近づいた時、「自分はCIAの対日工作員であった」と告白している。72歳の児玉は判決が出る直前の1984年(昭和59年)1月に再び発作を起こして没し、裁判は打ち切りとなった。なお、児玉の死亡後の遺産相続では闇で収受した21億円が個人財産として認定された上で相続税が計算されている。
当時、児玉が経営する企業の役員を務めていた日吉修二(2016年7月11日に死去。『NHKスペシャル』『未解決事件』File.5 「ロッキード事件」[23]でのインタビューが生涯で最後のインタビューとなった)によると、事件発覚直後、児玉の秘書から急遽呼ばれ、段ボール5箱分の書類をすぐに焼却するよう指示されたという。日吉はインタビューの中で「これが天下の児玉だと思ってますよ。それはやっぱり日本の為の国士ですから、何か事を起こすのにはやっぱ資金がないとね。(資金の)必要があったんじゃないかなと思う。これやっぱりロッキード事件に絡んだ書類くらい思ってますよ。伝票みたいなものもあったし、色んな綴じてある書類もあったし、そんないちいちね見ながらこれは焼いていいか、それはやらない。私、意外と忠実だから言われたらピッと焼いちゃう。ただ燃やしているチラチラ見える中には、英語の物もあったと思います。」と述べている。
児玉の通訳の福田太郎も死ぬ直前、次のような供述をしている。
福田「アメリカの公聴会で領収書の一部が公表されることになりました。ロッキード社から児玉さんに謝っておいてくれと電話がありました。」
児玉「それは話が違う。私に迷惑をかけないようにすると言っていたではないか。」
秘書「それを否定しなければなりません。先生は知らないと言えばいい。判子と書類は燃やしてしまいます。」
2016年に放送されたNHKスペシャル・未解決事件のインタビューに応じた堀田力元検事は「核心はP3Cではないか。P3Cで色々あるはずなんだけど。(児玉誉士夫がロッキード社から)金を上手に取る巧妙な手口は証言で取れている。(そこから先の)金の使い方とか、こっちで解明しなきゃいけないけど、そこができていない。それはもう深い物凄い深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く闇の部分に一本光が入ったことは間違いないんだけど、国民の目から見れば検察、もっともっと彼らがどういう所でどんな金を貰ってどうしているのか、暗闇の部分を全部照らしてくれって。悔しいというか申し訳ない」と語っている。
ロッキード事件…
児玉誉士夫は衆議院での証人喚問が行われる直前に、主治医による薬物の注射で、「昏睡状態」を偽装していたのだという。
児玉の証人喚問直前、主治医から「児玉は脳血栓による脳梗塞の急性悪化状態にある」との診断書が出され、国会が医師団を結成し診断したところ、主治医の言う通り「重症の意識障害下にあり証人喚問は不可能」な状態だった。
しかし、実際には、1976年(昭和51年)2月16日、児玉の主治医である喜多村孝一が、国会医師団の先回りをし、児玉に薬物を注射し、昏睡状態にせしめたのだという。
喜多村孝一は、強力な睡眠剤フェノバールと、やはり強力な睡眠剤のセルシンを同時に使用し、昏睡状態が生じさせた。この昏睡状態は、重症脳梗塞による意識障害と酷似している。
おかげで児玉ルートに繋がった中曽根は、検察の追及を免れた。
高名な医師が手を染めた信じられないような犯罪。
しかし、この国の医療の原点は、「731部隊」にあるのだ。
2021年4月16日、ガースーが訪米し、日米首脳会談後の共同声明に「台湾有事」を想定した「台湾海峡の平和と安定の重要性」が明記された。
1972年3月23日衆院予算委で、当時通産大臣だった田中角栄は、こう言っていた。
「二つの中国をつくる陰謀には加わらない。」
「台湾独立運動などには関与しないし支援しない。」
「日中国交正常化の第一番目に、たいへん御迷惑をかけました、心からおわびをしますという気持ち、やはりこれが大前提になければならないという気持ちは、いまも将来も変わらないと思います。」
「日中両国、二千年の歴史の上に立つ日中をもとに戻そう、もとよりももっとよくしよう。」
全くその通りだと思うし、そういう態度で、悲惨な戦争は回避して欲しい。
角さんの愛弟子の小沢さん、鳩山さんにもう一度頑張ってもらいたい。
(公式)第167回UIチャンネル放送 鳩山友紀夫×朝賀昭(政経調査会会長)
「今なぜ田中角栄なのか-日中関係そして沖縄-」(前篇)
(公式)第168回UIチャンネル放送 鳩山友紀夫×朝賀昭(政経調査会会長)
「今なぜ田中角栄なのか-日中関係そして沖縄-」(後篇) 2016/10/03
朝賀昭氏プロフィール
昭和18年(1943年)東京生まれ。都立日比谷高校時代に田中角栄自民党政調会長(当時)の知己を得て、中央大学法学部を卒業した昭和41年に正式に秘書となる。
以後、田中角栄氏に23年間側近として仕えた秘書。田中派秘書1000人を束ね、政策実現、選挙の強さで他に類を見なかった田中軍団を支える。その情報収集力、実行力、交友関係の広さは、ずば抜けており、現在も数多くの政治家が指導を仰ぐ。
今年最大のベストセラーとなっておる田中角栄元総理を描いた石原慎太郎著「天才」は、朝賀昭氏の著書「田中角栄最後の秘書が語る情と智恵の政治家」(www.amazon.co.jp/dp/4474029178)や朝賀昭氏のインタビューをもとに構成された「角栄のお庭番 朝賀昭」(www.amazon.co.jp/dp/4062187507)の内容が主な参考文献となっている。
田中角栄元総理が再び脚光を浴びる中、テレビ番組への出演や、日刊ゲンダイの連載で側近として仕えた秘書であった朝賀昭氏しか知りえない田中角栄元総理の実像を語る。
朝賀昭氏による話は、まさに日本政治史に残る歴史の瞬間の真実であり、「お庭番」であることからと最近まで表舞台に登場することを控えていた朝賀昭氏の話により明らかになった新事実も多い。
(この放送は2016年9月19日に配信されたものです。)
国会議事録
第68回国会 衆議院予算委員会第四分科会第4号
昭和47年(1972年.)3月23日
https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=106805270X00419720323¤t=1
(一部抜粋)
分科委員 川崎秀二君
通商産業大臣 田中角榮君
○川崎(秀)分科員
日中国交回復は、先ほど小林分科員からいろいろお尋ねでございました。小林さんは日中議員連盟の事実上の幹事長役として非常に御活動であり、裏のことも知っておられるので、吉田書簡の廃棄ということについて正面から、からめ手から、何とか答弁を引き出そうと努力をされておるのを拝見して、ずいぶん御苦労なことだと思っておりますが、これに対応する田中通産大臣の御答弁も、佐藤内閣という重しもございまして、非常に御苦心の御発言であるというふうに私は思うのであります。
ただ、私はこの際田中通産大臣にぜひ知っていただきたいことは、やはり経済上の問題は政治の原則よりはあと回しである、何ぼ努力してみましても、たとえば吉田書簡を廃棄してみましても、これはそうでございますね、ニクソンが昨年の七月十六日に訪中するということを決定する前でありましたら、いささか効果のあることだと私は思っておるのでございます。その後はもうすっかり向こうの考え方も、次期内閣を相手にして処理をするということに一切の方針をきめておりますので、したがって何といっても政治三原則、政治三原則の中の台湾条項というものに対する割り切った考え方がなければ日中国交回復というものは成立しない、それが第一である。その先行として平和五原則、平和五原則と政治三原則の台湾条項のからみ合いというようなものが重要でございます。これは御答弁をわずらわすのは、非常に苦しい立場のことでございますから、ただ、政治三原則と平和五原則のほうがはるかに重要であるという私の所説に対して、田中通産大臣はどう考えられておるか。これは現在のポイントである、というよりは少し時局を——写真機ではございませんが、フォーカスは時局の方向に合わせてでもかまいませんから、御答弁をいただきたい。
○田中国務大臣
日中間の国交正常化をはかりたいという、もう自民党内閣としては決定をいたしております。また、この中国の敵視政策をやめろということは、敵視政策をとっておりません。これは全く友好親善でまいりたいということでございます。二つの中国をつくる陰謀には加わらない、これはもう全く台湾独立運動なんというものはやりません。政府は、このような動きには関与いたしませんし、一切支援などいたしません、こう言っております。日中両国間の正常関係の回復を妨げないこと、これはもう当然のことだと思います。だからいろいろな問題の中で、過去の長い歴史の中にあるこの国民政府との問題、台湾の問題、俗に言う領土の問題、これが一番大きな問題であろうと思いますが、これはもう日中国交正常化の時点でなにしていく、またそうするということ以外にはないのじゃないかということは、佐藤内閣もいろいろの御質問に対して申し上げておるところであります。
これは二年ぐらいかかったカナダと中国との問題のときも、中国と国交回復をすること、すれば、唯一の政府と認めるというのは国交回復ということでございますし、台湾政府というものはどうだと言ったときには、これは正常化ができれば消滅をした問題であるということでございます。第三の問題の領土はどうかという問題、これが二年のうちの十分の八ぐらいかかったようでございます。しかしテークノートしますということで、世に言うテークノート方式がとられたわけでございます。今度は、ニクソン訪中によるニクソン・周総理の声明に対しては、これはもう一歩進めたような大きな字で、テークノートをするというくらいに前進をしたわけでございます。日本は「理解しうる」ですからもっと前進しているわけで、これはもうお隣でございますから、そういうことで、これはなかなか、いまこれをどうこうするといっても、どなたが政権をとられても日本人全体の問題としてやはりこれを議論していかなければならないし、日中両国、二千年の歴史の上に立つ日中をもとに戻そう、もとよりももっとよくしよう、こういう考えが前提になっておりますから、そういう中で消化していくということでないと、私がどんなことを言っても、どういたしますという明確なお答えがなかなかできない、そのくらいむずかしい問題だ、あなたもいまここでおすわりになっておると思って、実は御理解を願いたいと思います。
○川崎(秀)分科員
私は、ただいまの御答弁の上に、さらに時期の問題もございますが、やはり台湾問題、日華平和条約の廃棄という姿勢を明確にとるということでなければ、日本の場合はなかなか困難である。カナダとかその他とは、日本と中国との関係は違うということを御認識をいただいて、その御答弁は今日はいただかないことにします。私が、次期政局を見通して、田中通産大臣にもたいへん大きな期待を抱いておりますることは、いつか古井君が中国へ参ります際に、党内におきましていろいろ議論があった。その際に、ちょうど私が幹事長室へ参りましたら、雑談の中における田中幹事長のお話の中に、日中国交回復まではやはりわれわれはひけ目がある、土下座外交は困るけれども、中国に対してはやはりこちらは戦争の責任について贖罪をしておらぬ、こういうことを明快に言われたことです。これは当時は、現在の次期総裁候補者と見られる者のうち、十分な認識をしておらぬ者も散見されるように思っておりますが、これはおそらく戦争中召集兵士として非常に苦惨もなめられ、その中において今度の日中国交にあたっては、何としてもやはりあのいまわしい戦争における日本の大陸進出、向こうから言わせれば侵略ということに対しての償いというものをしなければならぬという考え方があなたにあられるということを私は看取したわけであります。そういう心がまえで今後臨まれるならば、日中国交の第一の難関というものは乗り越えられるのではないかという感じが非常にいたしております。まあ現在の内閣がどうなるか、まだ私は知りません。しかし、すでに常識的な世論の大勢がもうあるわけでございますから、その中において、自局党の従来の体質を脱皮するためにも、庶民的なカラーを持つ党人的な内閣というものが生まれてほしいというのが、私の非常な強い念願でございます。そういう意味での期待感も持っておりますので、この日中国交にあたっての贖罪意識というものがこの機会に明快に公にされることはたいへんいいことではないか。私の質問はこれで終わりますから、ぜひ明快な御答弁をいただきたいと思います。
○田中国務大臣
私も昭和十四年から昭和十五年一ぱい、一年有半にわたって満ソ国境へ一兵隊として行って勤務したことがございます。しかしその中で、私は人を傷つけたり殺傷することがなかったことは、それなりに心の底でかすかに喜んでおるわけでございますが、しかし私は、中国大陸に対してはやはり大きな迷惑をかけたという表現を絶えずしております。これは公の席でも公の文章にもそう表現をしております。迷惑をかけたことは事実である、やはり日中国交正常化の第一番目に、たいへん御迷惑をかけました、心からおわびをしますという気持ち、やはりこれが大前提になければならないという気持ちは、いまも将来も変わらないと思います。日中間二千年の歴史、もっともっと古いかもしれません。しかも日本文化は中国文化によって育ったということでありますし、同じ基盤に立つ東洋民族でもございますし、恩讐を越えて、新しい視野と立場と角度から日中間の国交の正常化というものをはかっていかなければならないのだ、そういううしろ向きなものに対してはやはり明確なピリオドを打って、そこで新しいスタートということを考えていかなければならないだろう、私はすなおにそう理解しておりますし、これが中国問題に対する一つの信念でもあります。
田中角栄、ロッキード事件40年後の「驚愕証言」【前編】2016.08.02 07:00
週刊ポスト
https://www.news-postseven.com/archives/20160802_434677.html/2
田中角栄、ロッキード事件40年後の「驚愕証言」【後編】
2016.08.03 07:00
週刊ポスト
https://www.news-postseven.com/archives/20160803_434844.html?DETAIL
↪︎(抜粋)
田中角栄・元首相が逮捕された「戦後最大の疑獄事件」、ロッキード事件発覚当初から、児玉誉士夫氏は「病気」を理由に証人喚問を拒否していた。
国会は1976年2月16日、病状確認のために医師団を児玉邸に派遣した。結果、児玉氏は「重度の意識障害」と診断され、喚問は見送られることになった。
7月上旬、『田中角栄を葬ったのは誰だ』(K&Kプレス刊)を上梓した、事件当時、衆院議長秘書を勤めていた平野貞夫氏(元参院議員)が振り返る。
「私は当時、児玉氏が中曽根(康弘)氏を守るために、自分の意志で証人喚問を拒否したと思っていた。しかし、その判断が間違っていたことに、後になって気付いた」
そのきっかけは、ひとつの告発記事だった。『新潮45』(2001年4月号)に掲載された記事で、児玉氏の主治医・喜多村孝一東京女子医大教授(当時、故人)の部下だった天野惠市氏(当時、同大助教授)の手記である。天野氏はその中で、国会医師団派遣直前の喜多村氏の行動を暴露した。記事には1976年2月16日の午前中、東京女子医大の脳神経センター外来診察室での出来事が克明に記されている。
〈立ったままの喜多村が、切り出した。
「これから、児玉様のお宅へ行ってくる」
喜多村は、児玉を必ず、「児玉様」と呼んだ。〉
天野氏が訝りつつその理由を聞いた後の2人のやり取りは以下の通りだった。
〈「国会医師団が来ると児玉様は興奮して脳卒中を起こすかもしれないから、そうならないように注射を打ちに行く」
「何を注射するのですか」
「フェノバールとセルシンだ」
いずれも強力な睡眠作用と全身麻酔作用がある。
「先生、そんなことしたら、医師団が来ても患者は完全に眠り込んだ状態になっていて診察できないじゃないですか。そんな犯罪的な医療行為をしたらえらいことになりますよ、絶対やめてください」〉
止める天野氏に対して喜多村氏は激怒し、看護師の持ってきた薬剤と注射器を往診カバンに詰めて出ていった──手記にはそう書かれている。
国会医師団が児玉氏を診察したのは、喜多村氏が児玉邸を訪れてから数時間後。そして喜多村氏が国会に提出していた診断書の通り、「重度の意識障害下」にあり、国会での証人喚問は不可能と判断されたのである。
平野氏がいう。
「フェノバールとセルシンの注射で発生する意識障害や昏睡状態は、重症の脳梗塞による意識障害と酷似している。仮に国会医師団が見抜けなかったとしてもおかしくない」
そして、着目すべきは“主治医が児玉邸を訪れたタイミング”だと指摘する。
「私のメモにも残っていますが、2月16日は医師団の派遣を巡って衆議院の予算委員会理事会が紛糾していた。医師団の派遣そのものを決めたのが正午過ぎで、メンバーが決まったのは午後4時。そこから『2月16日の当日中に行くか』『翌日の朝にするか』を協議し、夜7時になって当日中の派遣が正式に決定した。私は議長秘書として医師団派遣の調整に関わっていたので、時系列に間違いはない。
つまり、児玉氏の主治医は、国会医師団の派遣がまだ正式に決まっていない16日午前中に、すでに“医師団が今日中に児玉邸に来る”と確信していたことになる。医師団派遣はいわば機密事項だった。にもかかわらず、なぜ主治医は知っていたのか。国会運営を取り仕切れる中枢にいて、かつ児玉氏の主治医にもコンタクトできる人物が情報を流していたとしか考えられない」
◆「得をしたのは誰だ」
もし児玉喚問が実現していたら、ロッキード事件は違った方向に展開していた可能性がある。丸紅を通じて角栄氏が受け取ったとされるのは5億円。一方、児玉ルートには21億円が流れたとされている。平野氏が続ける。
「児玉氏の証言が得られなかったため、東京地検は狙いを田中さん一人に絞り、逮捕に全力を傾けた。もし当局が児玉ルートにも切り込んでいたら、ダメージを受けたのは中曽根氏だったはず。私は告発記事を読んだ後に天野医師と会って話したが、児玉氏の主治医だった喜多村氏は、その後、“中曽根氏の主治医”を名乗るようになったと証言している」
事件発覚当時から、角栄氏の逮捕に至る流れは、政治的な思惑のある「国策捜査」ではないかとの指摘がされていた。米議会公聴会で疑惑が出た直後の1976年2月9日に当時の三木武夫・首相は、与党内に累が及ぶ疑惑であるにもかかわらず、「なすべきことは真相の究明」と言明。権力側が政界ルートの捜査を検察に促す“逆指揮権”が発動したともいわれた。
そして結果として、三木首相と党内で対立する角栄氏に追及の矛先が向かった。その三木政権を幹事長として支えていたのが中曽根氏だった。
角栄氏が1976年8月に保釈されると、田中派をはじめとする自民党内の反主流派6派閥が一気に「三木おろし」の逆襲を始め、その際に政権サイドについたのが三木派と中曽根派だけだった。当時、自民党内で壮絶な権力闘争があったことは間違いない。
そして時は流れて平成の世になり、2008年に秘密指定が解除された米公文書に、中曽根氏とロッキード事件を結びつける記述が見つかっている。
〈ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があった〉(2010年2月12日付、朝日新聞)
中曽根事務所は平野氏の指摘、米公文書の記述について、「ノーコメント」とするのみ。平野氏が続ける。
「田中さんは物的証拠がないまま、証言だけで有罪になった。政治、捜査機関、司法当局、そしてメディアによって、“田中有罪”という世論の大合唱が作り上げられていった」
なぜ、ロッキード事件では結果的に角栄氏だけが狙い撃ちされたのか。
1972年9月に角栄氏が米国の意に背いて日中国交正常化を実現させ、同時に台湾との国交を断絶したことでホワイトハウスが激怒した―といった「米国の虎の尾を踏んだ説」も根強くある。それを裏付けるような機密解除された米公文書の存在も報じられている。平野氏がいう。
「“虎の尾論”は一面の真実をついているでしょう。ただ、私にできるのは、『対米追従シンドローム』に侵された日本の権力者たちが、田中角栄という政治家を葬ったということを論証すること。それが使命だと考えているから今回、『田中角栄を葬ったのは誰だ』を改めて出版した。事件から40年を機に、国民に目を見開いてほしい」
真実は、どこにあるのか。
※週刊ポスト2016年8月12日号
天野惠市 児玉誉士夫の口を封じた薬物注射
月刊日本 日本の自立と再生をめざす、肉声の言論誌
2016/7/26 2016/12/31
http://gekkan-nippon.com/?p=9317
児玉誉士夫に薬物が注射された事実
―― 天野さんは『新潮45』(2001年4月号)に「児玉誉士夫の『喚問回避』に手を汚した東京女子医大」という手記を寄せられています。その中で、児玉誉士夫は重症脳梗塞による意識障害のために国会の証人喚問に応じられないとされたが、児玉の意識障害の原因は、児玉の主治医だった東京女子医大教授の喜多村孝一が薬物を注射したことだと暴露されています。この点について改めて教えていただけますか。
天野 順を追ってお話ししましょう。昭和51年2月5日、朝日新聞の報道により、米国のロッキード社が児玉誉士夫に21億円もの不正な政治献金を行っていたことが明らかになりました。このお金は児玉を通じて政界にも流れた疑いがありました。そこで、国会はロッキード事件の真相を解明するために、児玉の証人喚問を決定したのです。
ところが、この証人喚問は実現しませんでした。それは、児玉の主治医である喜多村孝一が国会に、「児玉誉士夫は脳血栓による脳梗塞の急性悪化状態にある」という診断書を提出したからです。
しかし、その数日前には、児玉はゴルフをしており、ゴルフ場内のレストランで支払いレシートが見つかったと言われていました。もしこれが事実であれば、喜多村の診断書は嘘ということになります。国会はその真偽を確かめるべく、独自に医師団を結成し、児玉邸に派遣することにしました。
ところが、国会医師団の診断結果は驚くべきものでした。児玉は実際に重症の意識障害下にあり、証人喚問は不可能ということになったのです。つまり、喜多村の診断書の内容は正しいということになりました。
しかし、これには裏がありました。国会医師団が児玉邸に行ったのは2月16日の午後10時頃です。実はその数時間前に、喜多村が先回りして児玉邸に赴き、児玉にフェノバールとセルシンを注射していたのです。
フェノバールは強力な睡眠剤であり、どうしても眠れない患者や、てんかん発作が起きた患者などに使用する薬です。また、全身麻酔をかかりやすくするための前投薬としても使用されます。セルシンも同じく強力な睡眠剤で、患者が興奮状態で手に負えない場合などに使用されます。これらを同時に使用すれば、昏睡状態が生じ、数時間は当然口も利けなくなります。
これらの注射によって生じる昏睡状態は、重症脳梗塞による意識障害と酷似しています。もちろん血液や尿を採取すれば、薬物の存在を確認することはできます。しかし、国会医師団はまさか児玉にこのような注射が意図的に打たれているとは思わなかったのでしょう。それ故、彼らが児玉の症状がこのような注射によるものだと見抜けなかったとしても無理はありません。
(編集部註①)児玉誉士夫の証人喚問をめぐる主な動き
・2月5日 ロッキード事件が発覚
・2月10日 児玉の証人喚問が決定
・2月12日 喜多村が記者会見で、児玉の証人喚問は不可能と発表
・2月14日 喜多村が国会に児玉は脳梗塞だとする診断書を提出
・2月16日 国会医師団が児玉を診断、証人喚問は不可能と結論
児玉が脳梗塞ではないと確信した理由
―― 天野さんはどのようにして喜多村が注射を打ったことを知ったのですか。
天野 喜多村本人が私にそう言ったからです。2月16日の午前中、私は東京女子医大の脳神経センター外来室で患者を診ていました。午前の診療を終え、これから昼食だという時に、私の外来診察室2番に隣接した外来診察室1番の喜多村の診察室から、喜多村の大きな声が聞こえてきました。喜多村は何やらただならぬ様子で往診の準備をしているようでした。
私が「何をされるのですか」と尋ねたところ、喜多村は「これから児玉様のお宅へ行ってくる」と言いました。喜多村は児玉を呼ぶ際、必ず「児玉様」と呼んでいました。
しかし、報道では、近く国会医師団が児玉邸に派遣されると言われていました。「国会医師団が児玉邸に派遣されると言われているのに、何のために行くのですか」と問うと、「国会医師団が来ると児玉様は興奮して脳卒中を起こすかもしれないから、フェノバールとセルシンを打ちにいく」と言うのです。……
以下全文は本誌8月号をご覧ください。
ーーーーーーーーーー
喜多村孝一 陰謀加担疑惑

脳卒中の外科 喜多村孝一教授
119 〔雑 報〕 O東京女子医科大学学会 第45回総会 日時 昭和54年9月29日(土)8:00~17:00 会場 東京女子医科大学本部講堂 一般演題 40題 〔特別講演〕 「脳卒中の外科」 :東京女子医科大学教授 喜多村孝一
https://twinkle.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=3041&item_no=1&attribute_id=62&file_no=1&page_id=49&block_id=53

http://zutsuu-daigaku.my.coocan.jp/shiryou/taika.htm
天野惠市氏 証言者

天野惠市氏
1941(昭和16)年、奈良県大和郡山市生れ。1967年3月東京大学医学部医学科卒業。1968年4月同大学脳神経外科教室に入局。同年7月北米に留学、米国エール大学脳神経外科、カナダ・マックギル大学、モントリオール神経研究所において臨床脳神経外科、神経生理学などの研究に従事。1971年8月帰国。東京大学、東京女子医科大学勤務を経て、現在いくつかの医療機関で脳の医療に従事。1982年よりNHKテレビ医療番組「きょうの健康」などに出演し、脳の医療分野での知識の普及に努めている。医学博士(東京大学)、日本脳神経外科学会専門医、日本集中治療医学会専門医。
ーーーーーー
児玉誉士夫 Wikiより
ロッキード事件
ロッキード事件と児玉の関わりは、しばしばロッキード社または日本の政界という事件の帰着点ばかりが焦点化して報道・出版される傾向がある。しかし、ロッキード社が児玉へ秘密送金する窓口として、元OSS 員が社長だったディーク・ペレラ社を利用したという興味深い事実がある[21]。ディークは外国為替と貴金属取引に特化した企業であるが、21世紀に数件の訴訟を提起されている。その一方、今日ヨーロッパではHSBCやドイツ銀行がやはり外国為替と貴金属取引をめぐり不祥事を露呈している。
ロッキード社の秘密代理人
児玉はすでに1958年(昭和33年)からロッキード社の秘密代理人となり、日本政府に同社のF-104“スターファイター”戦闘機を選定させる工作をしていた。児玉が働きかけた政府側の人間は自民党の大野伴睦、河野一郎、岸信介らであった。1960年代末の契約が更新され、韓国も含まれるようになった。児玉は親しい仲にあった韓国の朴政権にロッキード社のジェット戦闘機を選定するよう働きかけていたのである。韓国に対する影響力の大きさが窺える。しかし、この頃、大野も河野も死亡しており、新しい総理大臣の佐藤栄作や田中角栄にはあまり影響力をもっていなかった[注釈 38]。
そこで児玉は田中との共通の友人、小佐野賢治に頼るようになった。小佐野は日本航空や全日本空輸の大株主でもあり、ロッキード社製のジェット旅客機の売り込みでも影響力を発揮したが、すでに日本航空はマクドネル・ダグラス社製のDC-10型機の購入を決定していたこともあり、その矛先を全日空に向けた。
この頃深い関係を作り上げていた田中角栄が1972年(昭和47年)に首相になると児玉の工作は功を奏し、その後全日空は同機種を21機購入し、この結果ロッキード社の日本での売上は拡大した。さらに全日空は、ロッキードから得た資金を自社の権益の拡大を図るべく航空族議員や運輸官僚への賄賂として使い、その後このことはロッキード事件に付随する全日空ルートとして追及されることとなった。
ロッキード社社長のアーチボルド・コーチャンが「児玉の役割はP-3C導入を政府関係者に働きかけることだった。児玉は次の大臣に誰がなりそうか教えてくれた。日本では大臣はすぐに代わるから特定の大臣と仲良くなっても無駄である。彼は私の国務省だった。」と調書で語っている。
ロッキード裁判
しかし1976年(昭和51年)、アメリカ上院で行われた公聴会で、「ロッキード社が日本の超国家主義者を秘密代理人として雇い、多額の現金を支払っている」事実が明らかにされ、日本は大騒ぎとなった。その後、三木武夫首相によってこの事件の捜査が開始され、すでにこの事件の中心人物と目されていた65歳の児玉は衆議院での証人喚問が行われる直前に「発作」を起こし、床についた。
しかし、間もなく児玉は脱税と外為法違反で在宅起訴され、裁判に臨むことになった。1977年(昭和52年)6月に一度公判に出廷した後は脳梗塞と後遺症を理由に自宅を離れなかった。 1979年(昭和54年)10月11日には3人の裁判官、検察官、弁護士が自宅を訪問して臨床尋問が行われた。「臨床」とはされたが尋問は自宅の洋間で行われ、児玉は和服を着て椅子に座って応答している。検察は小佐野との関係、ロッキード社のコンサルタントになった経緯を尋問したが、1時間ほどで児玉が喉の苦痛を訴えて取りやめとなった。
元総理の田中角栄は収賄容疑で逮捕され、1983年(昭和58年)10月に有罪判決が出された。児玉は死期が近づいた時、「自分はCIAの対日工作員であった」と告白している。72歳の児玉は判決が出る直前の1984年(昭和59年)1月に再び発作を起こして没し、裁判は打ち切りとなった。なお、児玉の死亡後の遺産相続では闇で収受した21億円が個人財産として認定された上で相続税が計算されている。
当時、児玉が経営する企業の役員を務めていた日吉修二(2016年7月11日に死去。『NHKスペシャル』『未解決事件』File.5 「ロッキード事件」[23]でのインタビューが生涯で最後のインタビューとなった)によると、事件発覚直後、児玉の秘書から急遽呼ばれ、段ボール5箱分の書類をすぐに焼却するよう指示されたという。日吉はインタビューの中で「これが天下の児玉だと思ってますよ。それはやっぱり日本の為の国士ですから、何か事を起こすのにはやっぱ資金がないとね。(資金の)必要があったんじゃないかなと思う。これやっぱりロッキード事件に絡んだ書類くらい思ってますよ。伝票みたいなものもあったし、色んな綴じてある書類もあったし、そんないちいちね見ながらこれは焼いていいか、それはやらない。私、意外と忠実だから言われたらピッと焼いちゃう。ただ燃やしているチラチラ見える中には、英語の物もあったと思います。」と述べている。
児玉の通訳の福田太郎も死ぬ直前、次のような供述をしている。
福田「アメリカの公聴会で領収書の一部が公表されることになりました。ロッキード社から児玉さんに謝っておいてくれと電話がありました。」
児玉「それは話が違う。私に迷惑をかけないようにすると言っていたではないか。」
秘書「それを否定しなければなりません。先生は知らないと言えばいい。判子と書類は燃やしてしまいます。」
2016年に放送されたNHKスペシャル・未解決事件のインタビューに応じた堀田力元検事は「核心はP3Cではないか。P3Cで色々あるはずなんだけど。(児玉誉士夫がロッキード社から)金を上手に取る巧妙な手口は証言で取れている。(そこから先の)金の使い方とか、こっちで解明しなきゃいけないけど、そこができていない。それはもう深い物凄い深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く闇の部分に一本光が入ったことは間違いないんだけど、国民の目から見れば検察、もっともっと彼らがどういう所でどんな金を貰ってどうしているのか、暗闇の部分を全部照らしてくれって。悔しいというか申し訳ない」と語っている。