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【共闘を妨害し続けた連合・芳野】統一教会の影〜富士政治大学校/松下正寿/八代斌助/立教/聖公会

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文鮮明の信奉者だったという松下正寿。
「文鮮明 人と思想」(善本社、1984年5月)という著書まで上梓している。
4000円😱 高っ!

松下正寿 Wikiによると、松下家はキリスト教徒の家系だったのだそうで、
「八戸聖公会で育つ」とある。
聖公会」…💡✨

聖公会…聖公会。
聖公会といえば、あの人。
こちらの記事🔻で取り上げた文鮮明の命を受け米国で奮闘した統一教会日本人信者。

  ✔︎2022年08月18日(木)【統一教会系フード米国企業が日本に支社】
   統一教会が日本の「魚(豊洲)」「肉(飛騨和牛)」を世界へ
   https://ameblo.jp/et-eo/entry-12759433165.html


アメリカで寿司を一大産業に育てた立役者、
象徴的な寿司伝道師として紹介された統一教会日本人信者の Mr.Takeshi Yashiro(1949 - 2018)氏(故人 Birth DateNovember 24, 1949 /Blessing DateJuly 1, 1982 /Ascension DateApril 21, 2018 )、この人🔻
https://bfm.tanemori.com/in-memoriam/takeshi-yashiro/

Yashiro氏は日本聖公会神戸の主教の末子であったとのこと。
八代斌助(やしろひんすけ1900年3月3日 - 1970年10月10日)氏の息子ではないかと思われる。
八代斌助は11人も子供をもけたという。http://eyyash.blog137.fc2.com/blog-category-7.html

そして、なんとなんと!!
八代斌助 Wiki にこうある…

”英国マクミラン首相と友人関係であったため、1956年(昭和31年)に時の岸首相からイギリスの水爆実験中止を要請するための特使として渡英することを要請されたが、「宗教家は政治に指図されるべきでない」とことわり、代わりに当時立教大学総長の松下正寿を推薦した。

Wikiの八代斌助の人物象のキラキラ感✨ 素晴らしい…

”北海道出身。立教大学中退。イギリス留学を経験している。神戸聖ミカエル教会司祭、神戸教区主教。1968年、日本聖公会首座主教。世界教会一致運動に参加。聖公会神学院理事長。オックスフォード大学神学博士、トロント・トリニティーカレッジ神学博士、アメリカのコロンビア大学教理学博士、ゼネラル神学校神学博士。神戸国際大学及び神戸国際大学附属高等学校を運営する学校法人八代学院を創設し理事長・院長を務めたほか、立教学院理事長・院長や松蔭女子学院理事長・院長、桃山学院理事長・院長、聖路加看護大学理事長(聖路加国際病院理事長)、国際基督教大学理事、聖ミカエル保育園理事長、オリンピア幼稚園園長、聖ラファエル幼稚園理事長、鈴蘭台聖ミカエル幼稚園理事長・園長、境港聖心幼稚園園長、神戸市教育委員、ボーイスカウト日本連盟相談役なども務めた。
子は日本聖公会神戸教区主教、八代学院理事長の八代欽一、日本聖公会首座主教で学校法人立教学院院長の八代崇、娘婿は神戸女学院大学学長の山口光朔。1970年10月、正四位・勲二等旭日重光章受勲。”

しかし、もう少し深く鋭く八代斌助の人物像を描いた新聞記事の紹介があった。
八代家のご親族のブログに、
「寸描 八代斌助  
 オックスフォード神学博士となった八代斌助として朝日新聞に掲載された(1958年)」と題されて、
当時の朝日の新聞記事と掲載された八代斌助 58歳の顔写真が載せてあった。非常に貴重な記録だ。
http://eyyash.blog137.fc2.com/blog-category-7.html
”日本聖公会というのは明治二十年イギリス教会伝道会社、アメリカ監督教会など三派が日本につくった一教派。この教派はすべて監督(主教)政治をとり、全国をいくつかの教区、地方部にわけて三年に一度立法、教務に関する協議をする。だから総裁の地位は非常に高い。現在教会は約三百。立教大学、聖路加病院などの学校、病院も経営しているが、彼はこのうち立教大学、聖路加病院をはじめ、神戸の松蔭女子学院、大阪の桃山学院の理事長など十数の要職を兼ねている。
デップリ肥った体格、酒も飲めば、タバコもやる。十一人の子持ち。戦後はいち早くGHQの関係で英、米、東南アジアを宗教、親善使節として回ったのをはじめ、外遊は十二回をかぞえる。すべて神学博士というワクでは考えられないエネルギッシュな性格を物語っている。 
 立教大学を卒業後イギリスの聖公会ケラム神学校に学んだという同教派直系の学歴がものをいって、イギリスでは宗教界をはじめ知人が多い。昨年、英水爆実験反対の政府使節として白羽の矢が立てられたとき、日本では彼の名をはじめて知った人が多かったが、イギリス本国では「八代来る」と新聞がトップ記事であつかったほどすでに“名士”になっていた。だから彼の社会感覚も日本人ばなれのしたスケールの大きさを持っている。政府使節を辞退したのも「宗教家はあくまで政治に支配されてはならぬ」という理由だったが、一部の人からは、日本人の感情に背をむけたオポチュニストだと批判された。
 彼はよく“摂理”という言葉をつかう。「すべてこの世にあるものは神のみ心であり、自然のままであるがよい」のだそうだが、よほど自分の立場をはっきりさせておかぬと、この考えは無思想に通じるからだ。函館生まれ、父も聖公会の牧師。祖父は秋田で*勤王塾を開いていた。神戸に来たのは大正十三年、海員ホームの建設にも努力した。五十八歳。(日本聖公会総裁主教)”

 *勤王塾 https://ryouma1836.com/1862/08/02/勤王の塾の風-池田慶徳/




[昭和50年4月] 中日ニュース No.1109_2「美濃部三選 -東京都知事選-」

1:57〜 松下正寿
統一教会の文鮮明に心酔していた松下正寿。
1975年、松下正寿は、再び都知事選に民社党推薦で出馬するが、
現職の美濃部、石原慎太郎の後塵を拝し落選。
松下は、1967年にも立教大学総長を辞職し都知事選に自民・民社2党推薦で立候補したが、
社会党・共産党推薦の美濃部亮吉に敗れていた。



【連合】8月定例記者会見(2022年8月25日)

16:40〜 
毎日新聞記者からの質問に芳野会長が回答。(下段 赤字

芳野友子 
2021年10月6日から8代目日本労働組合総連合会会長。
(Wikipedia)
自由民主党への接近
2022年2月17日午後、芳野は夏の参院選をめぐり、立憲民主党や国民民主党への支援を明示しない基本方針を発表。自民党から「女性同士、懇談したい」と誘われていた芳野はその直後、同日夜に党組織運動本部長の小渕優子、同労政局長の森英介と東京都内の日本料理店で会食した。翌18日、メディア各社は小渕らと会食したことを一斉に報道。連合会長代行の松浦昭彦(UAゼンセン出身)、川本淳(自治労出身)は「参院選まで自民党幹部との食事は控えてください」と芳野に自重を促した。
森英介は上記の会食後、党副総裁の麻生太郎に芳野の好物が日本酒であることを告げた。麻生は芳野を誘い、2022年3月16日に両者は都内のホテルで会食した。酒席には森と、連合事務局長の清水秀行(日教組出身)も同席した。このときも同会長代行の松浦と川本は、参院選を理由として、芳野と清水に苦言を呈した。
2022年4月18日、自民党本部で「人生100年時代戦略本部」の会合が開かれた。芳野は、同本部長の上川陽子からの参加要請に応じ、会合で全世代型社会保障に関する連合の見解を説明した。会合後、芳野は「政策実現のため、これから一緒に取り組めればと思う。問題認識は自民党とほぼ一緒だと思った」と記者団に述べた。
2022年9月15日、安倍晋三の国葬に出席する意向を表明。表明の会見で「労働側代表としての責任をどう果たすべきか。出席せざるを得ないと判断した」と述べた。国民民主党は出席する考えを示しているが、立憲民主党は泉健太代表ら執行役員が欠席するため、立憲を支持する産別から反発を招いた。”

統一教会関連 
芳野は8月25日の定例記者会見で、連合加盟の労働組合が研修などで利用している富士社会教育センターと統一教会の関係について質問を受けた。富士社会教育センターの元理事長が松下正寿であったことをふまえての質問だったが、芳野は「調べるつもりはない」と答えた。松下が理事長を務めていたことについても「私は知らなかった。今後も調べない」と答えた。さらに「マスコミで、私がそこで学んだと書かれているが、私はそこで学んでない」と述べた。”



https://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/75e18e18420e105bcf72add67c7f0105


植草一秀の『知られざる真実』
2022年9月19日 (月)
松下政経塾と国際勝共連合

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2022/09/post-23e774.html
全文必読


植草一秀の『知られざる真実』
2022年8月24日 (水)
民社・同盟・六産別と勝共連合

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2022/08/post-4d607f.html
全文必読

特集 ●歴史は逆流するのか
芳野友子新体制で危機に立つ連合

会長の器ではない、速やかな交代を――連合は労働運動の原点!に立ち返り再生の道を探れ
労働運動アナリスト 早川 行雄

http://gendainoriron.jp/vol.30/feature/hayakawa.php
(抜粋)
”1.芳野新体制の始動
反共演説と選挙妨害/総選挙総括/参院選方針/予算案に反対ではない?/政府・自民党への接近
2.芳野反共思想と「民主的労働運動」
反自民非共産/同盟と生産性三原則/堕落した「民主的労働運動」/富士政治大学
3.日本労働運動の再生に向けて
自発的結社/産業別労働組合 ”

” 富士政治大学
芳野の反共思想は富士政治大学で指導されたもののようである。富士政治大学は1969年に西村栄一(元民社党委員長)によって設立された富士社会教育センター内に、労働組合員向けの研修機関として設置された。民社党は、社会主義協会など左派系が主導する社会党から分裂して1960年に結成された政党である。結成当初は、社会主義インターに対して「福祉国家から社会主義への発展のプロセスを示せ」とか「資本主義体制に代わる代案を示せ」などの要望を提出している(清水慎三「日本の社会民主義」1961)くらいだから、富士政治大学の設置を契機に民主社会主義を担う活動家を養成することで、泥臭い組合ボス中心の議員政党から脱皮して、西欧型社会民主主義の受け皿となるような大衆政党への転換が図られるべきであったが、そうはならなかった。
富士政治大学では、職場で共産党(民青)や社会党(社青同)の活動家と渡り合うための論争技術の習得や精神の鍛練に重きが置かれたため(当時の研修実体は、宇治芳雄「洗脳の時代」1981)、西欧型社会民主主義の受け入れよりも、安直な反共主義に依存した「理論武装」が重視されたのであろう。芳野の話を聞けば分かるように、そこで語られるのは「共産主義=悪」という、反証を拒んだ公理から演繹される教条の類ばかりで、知的な論証の体をなしていない。丁度、「日本は正しい」という教義から導かれる安倍晋三の歴史修正主義と同じ構造なのである。日本的民主社会主義の見果てぬ夢の行き着いた先が、芳野的空疎な反共主義だとしたら、先人たちは草葉の陰で嗚咽していよう。
連合会長就任後の芳野については、政局がらみの発言ばかりが取り上げられるとの指摘もあるが、実のところ一枚看板のジェンダー平等も含め、芳野独自の斬新な提案など何もないのではないか。仮に何らかの貢献があったにしても、それを重視すべきでないのは、ナチスを評価するに際して初期の経済復興政策やアウトバーン建設、ドイツ語改革などを強調しないのと同様である。戦後労働運動における負の側面を集大成したような人物が現在の連合会長であるという戦慄すべき事実に、連合や労働界に留まらず、社会全体が最大限の危機感を持たねばならない。”


富士政治大学校(Wikipedia)
富士政治大学校(ふじせいじだいがっこう)は、日本の私塾・養成学校、民社・同盟系の研修機関。運営者は公益財団法人富士社会教育センター。1969年設立。
概要
創立者は民社党第2代委員長西村栄一。西村は「1970年代の政界の激動に備えるためには、なんとしても若い活動家層を育成しておかねばならない」との理念から創立に取り組み、1969年8月、西村が集めた基金を中心にして財団法人富士社会教育センターが設立された。同年10月、労働組合員向けの研修機関として富士政治大学校が開設された。民社党初代委員長で当時常任顧問西尾末広が最高顧問に就任した。
神奈川県座間市議会議員の松橋淳郎によれば、「一説によると、同学校は、昭和40年代共産主義やファシズムに対して、アメリカ中央情報局(CIA)の支援を受けて創立したとも言われている」という。
富士山麓の静岡県御殿場市に本校、岡山県のゼンセン中央教育センター内に西部本校が置かれ、同盟・中立労連・純中立・一部総評系の労組から派遣された若手組合員に対し、「二泊三日を標準としたカリキュラムで、民主社会主義の理論と実践活動についての集中教育」を行った。教育期間中に民社党関係者が入党勧誘を行い、ここで入党した青年党員は「民社党青年隊」の中核メンバーとなった。同校の研修を取材した貴重な体験ルポである宇治芳雄『洗脳の時代』(汐文社、1981年)および同書を紹介した斎藤貴男『「東京電力」研究 排除の系譜』(講談社、2012年)によれば、「全郵政ッ」「躍進ッ」または「全逓ッ」「粉砕ッ」といった掛け声を繰り返す「カケアイコール」、もたれかかってくる女性講師を胸で支えたり、女性講師と抱き合って風船を割ったりする「エンカウンティング・トレーニング」(心理学者の村田宏雄が指導)、講師が敵対する労組の組合員や民青などに扮して受講者を質問攻めにする「信念強化訓練」や「行動強化訓練」などファナティックな訓練が行われていたという。また前述の松橋市議によれば、旧海軍江田島教育が取り入れられているという。
この施設を活用し、民社党の中央党学校開催されていた。1994年12月9日の民社党解党大会も存続しており、旧同盟系の労組や無所属・民社協会会員や新進党・民主党・民進党・国民民主党・新・国民民主党の地方議員らに研修の機会を提供している。
1979年に松下幸之助が設立した松下政経塾との共通性が指摘されており、横浜市立大学商学部の平智之は人的な連続性を裏付ける証拠として、鉄鋼労連委員長や金属労協議長を務めた宮田義二が同塾の塾長や相談役、鉄鋼労連委員長や連合会長を務めた鷲尾悦也、電力総連会長や連合会長を務めた笹森清が同塾の評議員を務めていることをあげている。2012年9月に死去した宮田の「お別れ会」は富士社会教育センターや松下政経塾など5団体の代表が発起人となって開催された。
歴代理事長は、竹本孫一、松下正寿、高橋正則、宇佐美忠信、大松明則、落合清四が名を連ね、現在は逢見直人が務める。
2代目の理事長の松下は世界平和統一家庭連合(旧統一協会)の関与団体の日韓トンネル研究会の呼びかけ人を務めた。また、旧統一協会の創設者の文鮮明と深いかかわりを持つことが知られている。1985年には「国際ハイウェイ・日韓トンネルの構想は国際文化財団の創設者である文鮮明先生のものである。我々は先ずこの素晴らしい構想に対して感謝しよう」と書き記した。
新型コロナ問題が発生した2020年以降は政治専科開催困難となり、2021年は地方議員フォーラムと称し Zoom (アプリケーション)活用しオンライン開催。
核兵器廃絶・平和建設国民会議参加団体でもある。


UAゼンセン中央教育センター 友愛の丘
https://yuainooka.jp/facility/kinen.html
全国繊維化学食品流通サービス
一般労働組合同盟
UAゼンセン本部
〒102-8273 
東京都千代田区九段南 4-8-16
全国繊維化学食品流通サービス一般労働組合同盟(UAゼンセン同盟)会長 松浦昭彦


国際経済労働研究所
06(6943)9490理事長松浦昭彦
〒540-0031 大阪市中央区北浜東3-14 大阪府立労働センター4F
https://www.iewri.or.jp/aboutus/index.html


理事長 松浦昭彦(まつうら あきひこ)
略歴

1984年 帝人入社。
帝人労組執行委員、ゼンセン同盟総合化学・繊維部会副書記長、
UIゼンセン同盟化学部会副事務局 長・事務局長、UIゼンセン同盟書記長を歴任。
2012年11月 UAゼンセン書記長。
2016年よりUAゼンセン会長、現在に至る。


ゼンセン同盟(Wikipedia)
ゼンセン同盟
設立年月日1946年(昭和21年)7月31日
解散年月日2002年(平成14年)9月19日
後継組織全国繊維化学食品流通サービス一般労働組合同盟
組織形態産業別労働組合
組合員数580,331人(解散時点)
本部所在地東京都千代田区九段下四丁目8-16
加盟組織日本労働組合総連合会
支持政党民社党、新進党、新党友愛、民主党、民進党
(民進党の派閥・民社協会が一致結束して結党参加)国民民主党

ゼンセン同盟(ゼンセンどうめい)は、かつて存在した日本の労働組合である。
歴史
1946年(昭和21年)、繊維業の企業別労働組合を単位組合とする全国繊維産業労働組合同盟(ぜんこくせんいさんぎょうろうどうくみあいどうめい、略称:全繊同盟)が結成され、斎藤勇が初代書記長に就任する。日本労働組合総同盟(総同盟)に加盟する。
1950年(昭和25年)、日本労働組合総評議会(総評)の結成に伴い、総同盟を脱退して総評に加盟する。1953年(昭和28年)、総評を批判して脱退して全日本労働組合会議(全労会議)を結成する。
1954年(昭和29年)、近江絹糸紡績での前近代的な労務管理が明らかになり、近江絹糸民主化闘争本部を設置し、従業員を組織化し105日間にわたるストライキを指導。全面的勝利を勝ち取る。
詳細は「近江絹糸争議」を参照
1964年(昭和39年)、全労会議を解散し全日本労働総同盟(同盟)を結成、加盟する。
1969年(昭和44年)、長崎屋、ジャスコ、ニチイなどのスーパーの労働組合が加盟。組織化の対象をスーパーに広げ、後のサービス業全般の組織化の第一歩を踏み出す。
1974年(昭和49年)、ゼンセン同盟と改称する。
2000年(平成12年)、介護保険法施行にともない、介護クラフトユニオンを設立してゼンセン同盟に加盟する。大手介護事業者を中心に組織化される。
2002年(平成14年)、日本化学・サービス・一般労働組合連合(CSG連合)、日本繊維生活産業労働組合連合会(繊維生活労連)と統合し、全国繊維化学食品流通サービス一般労働組合同盟(UAゼンセン同盟)を結成する。


松下正寿(Wikipedia)
生年月日1901年4月14日
出生地日本の旗 日本 京都府
没年月日1986年12月24日(85歳没)
出身校立教大学卒業
コロンビア大学
カールトン大学
前職立教大学総長
所属政党(民主社会党→)
民社党
称号Ph.D(コロンビア大学)
日本の旗 参議院議員
選挙区東京都選挙区
当選回数1回
在任期間1968年7月8日 - 1974年7月7日

松下 正寿(まつした まさとし、1901年(明治34年)4月14日 - 1986年(昭和61年)12月24日)は、日本の政治家、国際政治学者、弁護士。
第5代・6代・7代立教大学総長、参議院議員(1期)を歴任した。勲章は勲二等旭日重光章(1974年叙勲)。
来歴
京都府生まれ。母方の祖父松下一郎は牧師で、松下家はキリスト教徒の家系であった。母は亀徳(きとく)しづ。兄は青山学院大学教授の亀徳正臣(1899-1954)。母方の姓を名乗る。青森県八戸市の八戸聖公会で育つ。旧制八戸中学校(現 青森県立八戸高等学校)を経て1922年に立教大学を卒業。コロンビア大学でPh.D、カールトン大学で学士号を取得したほか、ミネソタ大学やジョンズ・ホプキンス大学にも留学した。1929年、28歳で母校である立教大学教授に着任する。1943年5月、立教大学を辞職[1]。
第二次世界大戦中は、高木惣吉の提唱により設置された大日本帝国海軍軍務局調査課のブレーンを務め、各種研究会に所属していた。戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)では日本側の弁護人を務める。1948年弁護士開業。
1955年、立教大学総長に就任し、在任中は法学部の設立に尽力する。米国聖公会が決定したアジアへの原子炉寄贈に積極的に働きかけ、1957年に原子力研究所を設立して誘致[2]。同年、岸信介首相の特使として訪英し、核実験の実施に遺憾の意を示す岸首相の書簡を英国首相ハロルド・マクミランに渡している。
1967年、立教大学総長を辞職し[1]、東京都知事選挙に自民・民社2党推薦で立候補したが、社共推薦の美濃部亮吉に惜敗した。
1968年7月の第8回参議院議員通常選挙に民社党公認で東京都選挙区から出馬し、初当選を果たした。第10回参議院議員通常選挙には出馬せず、1期で引退。
1975年に再び東京都知事選挙に民社党推薦で出馬するが、現職の美濃部、石原慎太郎の後塵を拝し、3位で落選した。
1986年12月24日、死去。85歳没。
人物
親族

母・亀徳しづ(1878-1966)は、助産婦の先駆者の一人で、正寿と同じく八戸中学改め八戸高校の出身である三浦哲郎を取り上げた人である。三浦の小説「しづ女の生涯」はしづからの話で1967年に発表したもの。しづの実家である松下家は八戸にあり、しづの京都での助産行為の習得により故郷へ戻ることになった。父は宣教師。
兄・亀徳正臣の友人に、黒澤明を支えた脚本家・小国英雄がいる。正臣は小国に武者小路実篤の作品などを紹介し、大きな影響を与えた。
子息に東京大学名誉教授の松下満雄がいる。
統一教会との関係
1969年、統一教会関連の市民大学講座学長に就任。開講提唱者である数学者の岡潔を講師として招聘した。しかし岡からは、統一教会の全体主義的な教義に従う正寿について「松下 知的センスゼロ」と激しく非難されている。また講演箇所が固定的にならないよう、市民大学という名称も都市大学に変更するよう要請されている。正寿はこうした岡潔の指摘を受け入れると同時に岡潔を信奉していた。
参議院議員時代の1973年、世界基督教統一神霊協会教祖の文鮮明に助言を求めるため面会。以来、統一教会の思想や運動に深く関わりを持つようになり、元筑波大学学長の福田信之と共に、統一教会に重用された
1974年、統一教会が中心になって設立された世界平和教授アカデミーの会長に就任。1975年、世界日報論説委員に就任
1979年6月、世界日報社から、監訳を務めたフレデリック・ソンターク著『文鮮明と統一教会 その人と運動をさぐる』を刊行。同年7月、ソウル・ロッテホテルにおける国際学術会議で韓国語によるスピーチを行った。
1983年5月、日韓トンネル研究会が設立。松下は設立総会で呼びかけ人代表として挨拶を述べた。1985年には「国際ハイウェイ・日韓トンネルの構想は国際文化財団の創設者である文鮮明先生のものである。我々は先ずこの素晴らしい構想に対して感謝しよう」と書き記した。
1984年、文鮮明の人物像や理念を紹介した『文鮮明 人と思想』を上梓
1987年1月16日に統一教会本部において正寿の昇華追悼式が挙行された。
主な役職
日本評論家協会会長
核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)議長(1961年)
核兵器禁止宗教者平和使節団団長(1963年)
富士社会教育センター2代目理事長(教育部門・富士政治大学校)
市民大学講座学長(1969年)
八戸市民大学講座講師(1971年[6])
民社法曹協会会長(1972年)
世界平和教授アカデミー初代会長(1974年)
日韓親善協会中央会会長(1977年)
宗教新聞社社長(1979年)
日本超教派キリスト教協会会長(1981年)
国際クリスチャン教授協議会会長(1981年)


世界平和教授アカデミー(Wikipedia)

世界平和教授アカデミー(せかいへいわきょうじゅアカデミー、Professors World Peace Academy、略称はPWPA)は世界基督教統一神霊協会(統一教会)と人的・資金的につながりのある学者・文化人組織。1974年9月28日創設。本部は東京都新宿区新宿。機関誌『世界平和研究』『知識』を発行。初代会長は松下正寿。統一教会のダミー組織の1つと考えられている。
概要
世界平和教授アカデミーは統一教会の創始者で教祖・文鮮明の提唱で設立された。同じく統一教会系列の反共主義の政治団体・国際勝共連合と連携した活動を行なって来ている。
1976年 (昭和51年) 3月から1979年 (昭和54年) 3月までの3か年をかけ、日本の保守派の学者を動員し、日本の国家目標についての研究、「ナショナル・ゴール(国家目標)研究」(NG研究)というプロジェクトを推進した。これらは、基本的には反共主義に則った安全保障・国防拡張政策の実現計画・提言だったといってよい。一方で、宗教・思想と科学の統合という非科学的な研究や、民主主義の再検討という物騒な研究もおこなわれた。教育制度改革を通じて、国民に反共思想・国防思想・反自由主義を定着化させようとした点も主要な議論の1つだった。
プロジェクトには、糸川英夫、川喜田二郎、黒川紀章、小松左京と言った当時からマスコミを通じて広く知られた人物もかかわっていた 。それ以外にも、三菱総研、政策科学研究所、野村総研といった代表的なシンクタンクの責任者もプロジェクトの委員に加わっている。協力者には、山本七平、渡部昇一といった人物も含まれている[6]。成果は『国際化時代と日本―一〇年後の国家目標』(1980年に改訂新版)として出版された。
また、近年はインテリジェント・デザイン説を提唱する「創造デザイン学会」を主催している。「インテリジェント・デザイン」説は高度の知性を持った存在がこの宇宙や生命を設計したとする学説で、キリスト教の創造主たる神を科学的に論じようとする試みだとされ、母体である統一教会の影響が指摘されている。米国PWPAはアメリカにあるブリッジポート大学の運営にかかわっている。年間予算の多くはニューヨークに本部がある「国際文化財団」(初代理事長は文鮮明の側近で、元ワシントン・タイムズ会長の朴普熙、日本における会長は日本の統一教会と国際勝共連合の会長兼任していた久保木修己)からの援助だという。
沿革[編集]
世界平和教授アカデミーの設立は1974年 (昭和49年) 9月28日だが[7]、そこに至るまでには周到な準備がなされている。発端は、文鮮明の提唱により始められた「日韓教授親善セミナー」と「科学の統一に関する国際会議」である[7]。統一教会局長会議の元メンバー副島嘉和が述べているように、「科学の統一に関する国際会議」は統一教会のダミー組織である[8]。
「セミナー」は1971年 (昭和46年) 7月から1973年 (昭和48年) 4月にかけて計5回、「国際会議」は1972年 (昭和47年) 11月と1973年 (昭和48年) 11月の2回開催され、第3回「セミナー」において「アカデミー」創設の要請がなされた。日本で設立されるにもかかわらず「アカデミー」創設の原案は日本ではなく韓国側から出された。この原案はKCIAが作成したことが知られている。
原案に沿って、1973年 (昭和48年) 4月に東京の経団連会館で開催された第5回「セミナー」において、23名の教授によって日本で「世界平和教授協議会」が結成された。これが「アカデミー」の母体である。それから約1年半後の1974年 (昭和49年) 9月28日に、会員134名によって正式に世界平和教授アカデミーとして発足した。
「アカデミー」は国際文化財団によって創設されたが、この財団もまた統一教会のダミー機関である。
1974年
9月28日 「世界平和教授アカデミー」を設立。134名の教授らが参加。会長に松下を選出。
1976年
「10年後のナショナル・ゴール研究」と題する政策研究を3年間行なう。約二千人の学者が参加。
1979年
10月  政策研究の内容を『国際化時代と日本―10年後の国家目標』という本にして、各界に提言。
1985年
「東アジア総合研究」を開始。
8月「世界平和教授アカデミー(PWPA)」の第二回国際会議をスイスのジュネーヴで開催。
1988年
国際会議を開催。韓国、中国の学者たちと「アジア共同体」構想について議論。
1990年代
日本の生存と世界への貢献の道を模索する「グローバル・ゴール研究」を行ない、その成果を『精神革命への挑戦―地球時代宣言』として出版。。
1997年
「日本人の新しい目標」に関する研究成果を提言として橋本龍太郎首相(当時)に提出。
2000年
1月 高等教育に関する研究の成果を『「新しい道徳教育」への提言―「人格教育」をどう進めるか―』として出版。
主なメンバー
五十音順。世界平和教授アカデミーに関して継続して調査したジャーナリストはいないので、使える資料は古いものしかない。そのため、情報源は1980年代中頃までに限られる。1980年代後半以降、どのような人物がかかわっているのかはほぼ報道されていない。
「アカデミー」の会員は、1970年代末頃の数字で約1000人いた。会員の中には、原理研の活動とよく似た手法によって、統一教会のダミー組織だと知らないままだまされて誘い込まれた者もいたようである。
1985年 (昭和60年) 頃の証言によると、ある大学教員が「学生運動について話してほしい」と依頼されたので行ってみると、実際には原理運動のホーム (集団生活の場所) で、話をしているうちに次第に「大学の先生たちの集まりがある」から行ってみないかと、巧みに勧誘が始まったと言う。その「集まり」というのが「アカデミー」である。この証言によると、勧誘の対象になったのは学生運動対策の最前線に立っていた学生部長や学生担当など「学生運動にいじめられた人が多かった」ので、「アカデミー」に取り込まれた者もいたという。
会長・本部理事・監事・参与経験者
以下略


【異端・カルト110番】 統一協会の歴史にキリスト主義大学への浸透工作も 政界だけじゃない「反共」で癒着の実態
日刊キリスト新聞 2022.08.22
https://christianpress.jp/cult0822/
統一協会(現・世界統一平和家庭連合)と政界の癒着に関する報道が相次いでいるが、統一協会の浸透工作は政界のみならずキリスト教界にも及んでいた。クリスチャン新聞に1980年代はじめに掲載された連載「異端と教会」で、その実態が明らかにされている。同連載は『ドキュメント異端』(いのちのことば社)として出版された。その一部を採録する。
元立教大学総長で安倍晋三氏の祖父・岸信介氏の特使や民社党の参議院議員も務めた松下正寿氏のインタビューでは、統一協会による浸透工作がキリスト教界・学術/教育界にどのように及んでいたかを明らかにした。『ドキュメント異端』の中に統一協会の関連組織である学術団体「世界平和教授アカデミー」が設立された経緯が書かれている。(以下引用)
世界平和教授アカデミーという組織がある。公称2000人の学者を会員に擁し、毎年、「世界平和国際会議」「学際研究会議」を開催、「科学の統一に関する国際会議」に参加者を派遣するほか、研究会やシンポジウムを開き、季刊誌『知識』等を発行している。現在、米国、英国、西独、韓国に同様の学会があるという。
この学術団体、実は統一教会と深い関係があるのだ。その最大の財源である国際文化財団は文鮮明が創立したもので統一教会の資金によって運営されており、久保木修巳統一教会会長が日本での会長を兼務している。東京麹町にある事務局の職員12人は、松下正寿同アカデミー会長(元立教大学総長)の話によれば、全員が統一教会員。事務局でも「全員ではないがだいたいそう」だという。このアカデミー創立の経緯を見ると、1970年代初頭、文鮮明の提唱によって「日韓教授親善セミナー」及び「科学の統一に関する国際会議」が開始されたことに端を発する。それが発展して組織化され、1974年、134人の学者が発起人となって正式に世界平和教授アカデミーとして発足したのである。
統一教会と密接な関連を持つ世界平和教授アカデミーの会長で、同じく市民大学講座学長でもある松下正寿氏は、元立教大学総長、祖父の代からの聖公会の会員である。現在(1981年当時)民社党顧問であり、1968年から一期、自民、民社推薦で参議院議員を務めたこともある。熱心な反共主義者で、統一教会の積極的な擁護者としても知られ、統一教会のしおり(入会案内)には「統一教会こそ、世界の進みつつある破滅から人類を救う、唯一の存在であると信じている」と、熱い推薦文を寄せている。キリスト教界に籍を置き、ミッション・スクールの総長まで務めた識者が、なぜ統一教会を支持するのか、松下氏にこの疑問をぶつけてみた。

――世界平和教授アカデミーの目的についてうかがいます。
「よく知らないんですがね……宗教と科学の統一ということを言ってますが、私の考えでは、政治経済と宗教が分かれているところに時代の危機があるんであって、それを宗教を基盤にして統一しようということです。」
――基盤になる宗教とは?
「基本的にはキリスト教ですが、メンバーの信仰はいろいろです。プロテスタントは結局西洋の宗教ですからねえ。それぞれの国はそれぞれの歴史。国土を持っているわけだから、もろもろの宗教の融和が必要です。クリスチャンだけがいばりくさる時期は、もう過ぎましたよ。そういう考え方が日本のキリスト教会不振の原因なんだ。」
イエス・キリスト以外に救いはないという福音を信じる聖書信仰からは、明らかにかけ離れていることがうかがえる。
統一教会との出会いについては「参議院議員の時、久保木さん(統一教会会長)から市民大学講座の学長を依頼されたのがきっかけで、キリスト教について思想が合ったので引き受けた」という。統一原理の教理について意見を求めると、「一応『原理講論』を読み、韓国で講義も受けましたがね。排他的でないという点では賛成だが原罪論などは明らかにおかしい。再臨論は理解できません。そもそもオーソドックスなキリスト教の再臨論自体、私は否定はしないが分からない。」
――統一教会の倫理性が社会問題になっていますが。
「ほとんどは誤解じゃないですか。私もあまり知らないし、気にもしません。」
――“アカデミー”の会員は、統一教会について知っていますか。
 「中には統一教会とかかわると危ないと思って忌避する人もいますが、大部分は知らないでしょう。だいたい、そういうことには無関心な人が多いです。」
――統一協会はキリスト教だと思いますか。
 「思います。そういうことは非常に抽象的だから、思いたくなければそういう議論もたてられるでしょうが、私はクリスチャンだが、神道も仏教も排斥しない。同じことです。」
――教会にとって脅威になる、との声もありますが。
 「なった方がいいと思いますよ。今の教会のように排他的であるより、異端といわれるなら異端である方がいい。」
 最後に、“アカデミー”は統一教会のダミーでは、とたずねると、「大部分の金を出しているから、関係がないといえばウソになる。関係あるから結構なんで、金は出すが口は出さない。原理がどうかということは重要ではない。おかしいと思う人の心理状態の方がおかしい」ということだった。
しかし、次の一文を読めば、資金を出してまで学者を集める統一教会の謀略的意図は明白である。
「金はそういらないよ。多少の賞金をかけてみて、世界の学者達に、原理を研究して合格した人に対し授与すると宣伝してごらん。学者達は目を丸くしてビックリするよ。伝道のやり方はいくらでもあるんだね。この道を国家的運動まで展開せしめるには如何にするか。牧師の世界的基準をつくる。……その思想的基準に立って、世界の哲学者達に対し問題となるような基準を確立する。そのときに我々は実績をそえて世界的旋風を学界に起こすんだね。優秀なる学者達を前面に立てして、学会を中心として思想的体系を彼らに発表するようにさせれば、自然と問題になるんだね。……そこで文化的活動する。雑誌や新聞などを知識層を目的にどんどん出版する。そうすると、来るなと言っても自分からやって来るようになる」(『伝道ハンドブック・みことば編』*32~33頁)*統一教会発行のハンドブックで「みことば」は文鮮明の言葉のこと。
 『ドキュメント異端』にはこのほか、青山学院、明治学院といったキリスト教主義大学に統一教会(原理研究会)がどのように浸透したかについて、それぞれの大学の教授や学生にインタビューした取材記事も載っている。分かったことは1970年代、左翼学生による学園紛争が激しくなる中で、「勝共(反共)」を掲げて左翼の学生運動に対抗した原理研究会を大学側が頼りにした、その中で学内活動の主導権を原理研究会が握っていったという構図だ。自らの利害のために統一協会関連団体と知りながら利用しようとして、逆に統一協会に利用される――政界と統一協会の癒着と同じ構図が、キリスト教主義大学を含む学術・教育の分野でも起こってきたのだ。




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