11億詐欺逮捕社長は
小池百合子のタニマチだった
元同居男性が“最高顧問”
2021/06/02「週刊文春」編集部
https://bunshun.jp/denshiban/articles/b1204
横浜のみなとみらいに聳え立つランドマークタワー19階に、太陽光発電や浄水装置開発などを手掛けるテクノシステム(以下テクノ社)はある。フロアの奥には湾岸エリアが一望できる応接室。案内された投資家たちが座る上座の背後の壁には、事業が紹介された新聞記事の切り抜きとともに、生田尚之社長(47)が有名人と撮った写真がズラリ。ひときわ目を引く一枚は、小池百合子東京都知事(68)との写真だった――。
麻生、小池も…社長は詐欺で逮捕!
インチキ「太陽光発電会社」の広告塔だった政治家
デイリー新潮 2021年06月05日
https://www.dailyshincho.jp/article/2021/06050557/?all=1
ウソの女帝・小池百合子と同居男「疑惑の錬金術」 親密PR会社社長に不動産売却
「週刊文春」編集部 2020/06/11
”水田氏は多くの物件を、ローンを組まずに購入しており、40代半ばで、公安調査庁、秘書、芸能関連会社(すでに閉鎖)の経営など職を転々としながら、莫大なキャッシュを動かせる力を身につけたようだ。
https://bunshun.jp/denshiban/articles/b128
小池都知事に籠絡された男たち「二階幹事長」「創価学会幹部」を操り再選確実
デイリー新潮 2020年06月19日
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/06190559/?all=1&page=1
”政治部記者によれば、
「小池さんはかねて、二階幹事長との関係を深め、次期都知事選に自民系候補者を擁立させないよう画策してきました」
二人の関係は1990年代の新進党時代からとされるが、自民党関係者はある出来事が印象的だった、と語る。
「2002年のことです。彼女は二階さんに中国の案件でお世話になっています。そのことをとても恩義に感じているんです」
その中国の案件とは、小池氏の親戚を名乗り、後に秘書となる水田昌宏氏のこと。小池氏の看板を持つ彼が、“特権的”に銀行から融資を受けていたのでは、と本誌(「週刊新潮」)は過去に指摘。水田氏は02年、NGOの通訳として訪れた中国で公安に拘束されている。その際、小池氏は水田氏の写真をもって、二階氏に相談。それが功を奏したかは不明ながら、結果的に水田氏は釈放されているのだ。”
「小池百合子」金銭スキャンダル(1) 「エコだハウス」に同居する金庫番の存在
デイリー新潮 2016年09月26日
https://www.dailyshincho.jp/article/2016/09261600/?all=1
”彼女が政界デビューを果たしてしばらくした頃から、常に彼女の近辺にあった「負の側面」、それはある人物の存在である。
水田昌宏氏――。
現在の年齢は40代前半。2005年、小池氏が第3次小泉内閣で環境大臣兼内閣府特命担当大臣(沖縄・北方)を務めていた際に大臣政務秘書官となり、07年には一時期、彼女の公設第二秘書だった人物だ。また、彼女は政治資金管理団体「フォーラム・ユーリカ」及び「自由民主党東京都第十選挙区支部」の代表者だったが、それぞれの収支報告書の確認できる最新のもの、14年分までの会計責任者の欄にあるのも、水田氏の名前だ。さらに、今回の東京都知事選の選挙運動費用収支報告書の出納責任者の欄には、水田氏の妻の名前があった。
■水田氏と小池氏の接点
それだけではない。
小池氏が練馬区内に自宅を新築したのは10年。太陽光パネルを設置した「エコだハウス」と彼女自身が命名した家だが、水田氏は、その土地の2分の1、建物の5分の1の共有者になり、家族と共に小池氏と同居しているのである。
もう1つ、重要なのは水田氏が小池氏の親戚であると吹聴している点だ。実家は兵庫県加古川市にあり、呉服店を営んでいた。その呉服店が破産宣告を受けたのは00年5月。水田氏と小池氏が直に接点を持つのはそれからほどなくした頃だ。
「突然、水田さんの母親から小池事務所に手紙が届いたのです。そこには、“私と小池先生とは遠縁にあたります。息子が縁もゆかりもないロシアに留学することになり、不安です。どうかお力添えいただけないでしょうか”というようなことが書いてありました」
そう話すのは、小池氏の後援会関係者である。
「小池は“誰それ?”という反応だったのですが、親族と言うのならば、とテレビ局などのモスクワ駐在員に連絡を取り、“親族の水田昌宏という者がそちらに留学しますので、よろしくお願いします”と口添えしてあげたのです。でも、それが運のつき……だったのだろうと思います」
その後、水田氏は小池氏の「負の側面」として関係者の間で問題視されるようになる。それを指しての「運のつき」という表現であることは言うまでもない。
■「マンション経営をやりたい」
北朝鮮からの脱北者を支援していたNGOの事務局長が中国の公安当局に拘束される事件が起こったのは02年10月。このニュースに触れた先の後援会関係者は驚愕したという。事件を報じる各紙は、事務局長と共に水田氏が拘束されたことも伝えていたのだ。
「モスクワに行ったはずなのになぜ中国で拘束されるのかと不思議に思ったのですが、しばらくして釈放されました」(同)
水田氏はそれからもしばらく中国の大学での留学生活を続けた後、帰国。
「頻繁に小池事務所に出入りするようになった水田さんはよくこう言っていました。“小池さんに命を助けてもらった”“一生かけてご恩返しします”と。あと、なぜか“防衛庁に入りたい”と言っていた」(同)
水田氏が実際に入ったのは防衛庁ではなく公安調査庁だったが、翌年、早々に辞職。小池氏と水田氏、どちらが望んだのかは定かではないが、大臣政務秘書官に就くのである。
「その後、小池氏は07年に防衛相に就任。08年には自民党総裁選に出馬して敗れますが、あれは彼女にとって大事な時期だった。閣僚を歴任し、総裁選にも出て、将来に欲が出てきた。つまり、総理総裁への道を本気で目指し始めた」
そう話すのは、別の後援会関係者である。
「権力獲得への意欲を隠さないようになった彼女でしたが、金に対しては非常に淡泊。領収書なしで政治家がフリーで使える文書通信交通滞在費ですら事務所任せにするくらいです。そんな中、彼女の政治資金については水田さんが一手に引き受けるようになっていった」
06年から09年頃にかけて、複数の事務所関係者や後援会関係者が、水田氏が次のように口にするのを聞いている。
「(群馬県の)高崎でマンション経営をやりたい」
それを耳にした関係者の1人は、
「ずいぶん辣腕だな、と感心する一方、妙に不穏なものも感じました。いくら今後、金が必要になるとはいえ、秘書がマンション経営にまで手を出すとは、ある意味では、悪魔に魂を売ったようなものだな、と」
そろそろ本題に入ろう。
複雑な案件なので丁寧に追っていくが、話は大きく2つに分けられる。
1つはまさに水田氏による高崎でのマンション経営について。先に断っておくと、そこには水田氏自身だけではなく、政治家・小池百合子とも深い関わりがある。そのマンションの建設が始まろうとするその時期に、施工業者が、小池氏の資金管理団体「フォーラム・ユーリカ」に100万円を寄付しているのだ。
もう1つは、都知事選の結果が出た翌日、この高崎のマンションを含む小池氏、水田氏が関係する3つの物件を共同担保として、みずほ銀行が3億3000万円もの根抵当権を設定している件だ。こちらにも小池氏自身の関与がある。この3つの物件には彼女の自宅「エコだハウス」も含まれており、先に触れたようにここは小池氏と水田氏の共有となっている。銀行が根抵当権を設定する際、水田氏だけではなく、共有者である小池氏の「承諾」が必ず必要であるため、彼女は「知らなかった」では済まされないのだ――。
***
(2)へつづく
※連載(4)まで続く。
「小池百合子」金銭スキャンダル(3)
「なぜクレバーな小池さんが…」“親戚”を吹聴する金庫番
デイリー新潮 2016年09月26日
https://www.dailyshincho.jp/article/2016/09261602/?all=1
”水田氏はどういう生い立ちを経て今の立場を得るに至ったのか。本人は、自分は小池氏の親族だと吹聴しているが、それは果たして事実なのか。
すでに触れた通り、水田氏の実家は加古川市の呉服店(※(1)参照)。しかも300年以上も続く老舗であった。
「(水田)昌宏くんの実父は語学が得意な元商社マン。しかし、彼がまだ小さい時に亡くなってしまい、彼は実母の姉夫婦の養子になりました。それが水田呉服店です。お店は確か2階建てで、2階は着物の展示場になっていました。お店の裏には蔵もあったと思います」(近所の古老)
店を切り盛りしていたのは主に水田氏の養母。養父は地元商工会の副会頭も務めていたというが、
「昌宏くんの養父も婿養子という形で水田家に入っている。この養父が小池百合子さんの親戚だと聞いています。そうだとすると昌宏くんと小池さんには血の繋がりはない、ということになりますが、養父の旧姓は分からないので、正確な関係は不明です」(同)
■「なぜクレバーな小池さんが」
水田氏は地元の小、中学校、加古川東高校を経て早稲田大学商学部に進学した。
「大学を卒業してしばらくした頃、着物姿の昌宏くんが養母と一緒に“戻ってきました”と挨拶しに来たことがありましたね。でもその頃にはすでに水田呉服店は苦境に立たされており、昌宏くんがお店に入って数年で廃業となってしまった」(近所の商店主)
それからほどなくして水田氏がロシアに留学する際、小池事務所の世話になったことにはすでに触れた(※(1)参照)。その後、正式に秘書となり、金庫番としての地位を確立し、ついには小池氏と同居するに至るわけである。
「なぜクレバーな小池さんが水田さんのようなインチキな人間を信用しているのか、本当に不可解。独身で子どももいないという寂しさに付け込まれたとしか思えない」(小池氏の知人)
高崎でマンション経営をやりたい──。06年から09年頃、水田氏がそう口にするのを複数の関係者が聞いていることは前述したが(※(1)参照)、
「そういえば、水田さんがそう口にするようになったのは、高崎出身の外資系保険会社外交員が小池の事務所に出入りするようになってからだった。となると、穴吹興産の話を水田さんに斡旋したのもその外交員だったのかもしれない」(同)
そこでその外資系保険会社外交員に聞くと、
「私からは何も申し上げられません」
とした上で、代理人の弁護士を通じて取材に対する抗議の意思を示す通知書を送りつけてきた。ちなみに水田氏の代理人を務める弁護士からも、取材の過程で訴訟をほのめかす計4通の「警告書」などが届いた。
***
(4)へつづく
※連載(4)まで続く。
【顔画像】小池百合子の従兄弟の同居男性Mの実名は水田昌宏!金銭スキャンダルとは?
2021年6月30日
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/06190559/?all=1&page=1
【中国遼寧省公安】甥の水田昌宏さんら2名を拘束 (2002年10月30日)
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北朝鮮難民救援基金加藤博事務局長ら解放
すでにニュースで何度も報じられていますが
11月6日に中国当局より解放され
日本に戻った北朝鮮難民救援基金の加藤博事務局長は
7日午後2時、外務省を訪問し、
中国官憲により逮捕された10月30日から、
解放された11月6日までに体験した事柄の
詳細を報告しました。
以下は加藤さんと
北朝鮮難民基金による要求
および今回の事件の概要です。
ちなみにもう1人拘束され、
解放された水田昌宏さんは
小池百合子拉致議連副会長の甥でした。
小池副会長は「もし甥が北朝鮮に連れていかれたなら
私も家族会に入らないといけないのかしら」
と言っていましたが、幸い冗談ですみました。
http://www.sukuukai.jp/houkoku/log/200211/02-11-08.htm
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中国大連市で
中国公安当局に身柄を拘束されていた
NGO北朝鮮難民救援基金の加藤博事務局長(57)と、
通訳の水田昌宏さん(30)の2人が釈放される。
吉林省の延辺大学留学生の水田さんは
引き続き在留を許可されたが、
加藤さんは国外退去処分を受け帰国。
帰国した加藤さんは、
公安当局で40cm四方の椅子に
手錠で四六時中縛られるという拷問を受けた
と証言するが、中国側は拷問を否定。
蓮池透さんが「日本のメディアなのだから、
日本人を返せと強く訴えてもらいたい」
とマスコミの節操のない報道を批判。
(テレ朝系ワイドスクランブル)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Euro/1880/process_0211_1.html
加藤 博氏(1945年 -)
日本のジャーナリスト。北朝鮮難民救援基金代表。
人物略歴
1945年、福島県に生まれる。立教大学卒業。1969年から1976年にかけて旧仏領インドシナのベトナム、ラオス、カンボジアを取材、1989年にはベルリンの壁崩壊に端を発する東欧革命、また、1990年からはソビエト連邦崩壊までの軌跡を取材した。1991年以降は、ロシア連邦シベリア地域において強制的に働かされていた北朝鮮木材伐採労働者のキャンプを取材している。1998年9月には北朝鮮難民救援基金の設立に参加した。2002年10月、中華人民共和国遼寧省大連市で中国国家安全局により拘束された。中国政府が脱北者の保護・支援活動への取り締まりを強めるなか、生命の危険を冒しながらも人道支援を続け、2008年、実際に多くの貴重な人命を救ったとして東京弁護士会人権賞を受賞した。
https://www.epochtimes.jp/p/jp/2006/09/html/d41974.html
【大紀元日本9月25日】北朝鮮の脱北者を人道支援し救出する日本のNPO法人「北朝鮮難民救援基金」で現事務局長を務める加藤博氏(61)は19日午後、大紀元時報日本のインタビューに応え、自らが本活動に挺身するようになった動機、ロシア極東東北部での救援活動、中国東北部での安全部による取調べなどについて語った。加藤氏の語り口は非常に静かで理性的であり、人柄は人間的な暖かみと信念の固さを感じさせるものであった。
-北朝鮮の脱北者を救援する活動に挺身するようになった動機は何か?
「私が高校1年生の1960年当時、同級生に文武両道に秀でた在日の友人がいたが、当時の日本では在日に対する差別があり、東大を出ても焼き肉屋かパチンコ屋しか将来がなかった。そのため、(北朝鮮への)帰国事業も盛んであったので、この友人に帰国を勧めた。後年「文芸春秋」の記者として1991年にシベリアの木材伐採所から逃亡した北朝鮮労働者を取材する機会を得、その悲惨な実態を知る事により、高校当時の友人のことが脳裏をよぎり、記者仲間のポケットマネーで(私的に)救出活動を始めたのがきっかけ。その後、会社を退職してから活動を本格化させた」。
-加藤事務局長は、中国東北部での活動中に中国当局に拘束されたということであるが、それはいつどのようなものであったか?
「私は、2002年10月31日に大連で拘束された。既に中国大陸に冬が迫っていたため、脱北者に冬の衣料と食糧の配給を行い、土地の責任者と協議しようと当地を訪れていた。たぶん土地の支援者の一人が公安当局に通報したのだろうが、いきなり5~6人でやってきて容疑も告げず、荷物もろとも連行された。連行したのは公安ではなく、諜報機関の安全部だった」。
-その時の中国安全部の取調べはどのようなものだったのか?
「私は、都合7日間拘留されたが、最初の一日は大連山中の拘留所で過ごし、その後に長春に航空機で移送され、取調べが本格化した。取調室は10メートル四方の大きな部屋で、私は椅子に両手と胴体を縛り付けられ身動きが全くできなかった。当局は、取調官が正副2人、書記1人、通訳1人であった。取調べは、通常朝の8時から始まり午後2時まで、再び午後4時から午後8時まで、さらに午後10時から翌日午前2時頃まで、これが連日続いた。その間、トイレに行く時しか立つことを許されなかった」。
-その間、食事は与えられたのか?
「発泡スチロールの箱の中に入ったご飯を三食出してくれたが、全く食欲は湧かなかった。あまりに食べないので通訳に注意されたぐらいだ」。
-中国における脱北者の数はどれぐらいで実態はどのようなものか?
「脱北者数はたぶん10万人位というのが妥当だろう。中国当局の取り締まりがあまりにも厳しいので、始めは朝鮮人自治区の延辺自治州にいたが、内陸に逃げ込む傾向があり、現在では河南省や浙江省など全国的な散らばりを見せている」。
-脱北の際、鴨緑江と豆満江とがあるが、どちらのケースが多いのか?また白頭山ルートもあるのか?
「白頭山ルートは聞いたことがないので、まずないだろう。二つの河については豆満江ルートの方が多いはずだ。鴨緑江は下流に行くほど水量が多く川幅も大きくなるので難しくなるだろう」。
-脱北者の動機は経済的な理由が大きいということだが、闇市の状態は現在どのようなものか?
「まず、食糧難の地域というのは咸鏡北道と咸鏡南道で、脱北者は圧倒的にここ出身の人たちが多い。平壌付近の平安南道などは、穀倉地帯なので脱北者は少ない。闇市場というのは、現在中国製品で溢れており、地元の人が買うのではなく、ここから平壌に輸送される中継地点のようになっているようだ」。
-中国当局は、「東北公正」という話を持ち出し、大同江以北の高句麗史は中国史、さらに漢江以北までもが中国史とまで主張して、朝鮮半島の領土について縁故物権を言っているようだが、これについてはどうか?
「歴史的にどうのこうのというのではなく、これが中共国家の社会科学院が発したというが、政治的なメッセージを考えるべきだ。3~5世紀に「高句麗」という国家が成立していたのは事実であり、それは朝鮮半島のみならず中国東北部にまで延びていた。ここが中国の地方政権であったとしなくては、将来朝鮮族がこのような半島統一国家になった場合に困るからこう言ったのだろう。北に眠る地下資源にも目をつけて領有権を主張しているのだろう」。
-文芸春秋の記者時分、ロシアでは具体的にどのように脱北者を救出していたのか?
「91年当時、ハバロフスク、ウラジオストックで救出していた際、シベリアの木材伐採所で働く北朝鮮労働者は、ロシアン・マフィアと結託した保安要員に酷使されていた。まずロシア現地の警察署長をモスクワ旅行に招待し、これに労働者を同行させ、モスクワ現地の国連難民高等弁務官事務所に駆け込ませる。この手法で、10人は救出した。当時、一人50ドルあれば一月暮らせた」。
-現在日本では、李・ヨンハ氏(RENK代表)、山田文明氏(北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会)、野口孝行氏(北朝鮮難民救援基金)、そして加藤事務局長の四人に平壌から逮捕状が出ているが、これについてはどうか?
「これは、日本政府が拉致実行犯のシン・ガンス容疑者を国際指名手配にしたことと関係がある。逮捕状を見ると、朝鮮公民の誘拐、日本人の北公民を誘拐したとあるが、全くの事実無根だ。日本政府への対抗措置として、私たちを対日カードに使ったのだろう。北朝鮮の常套手段であるが、貧困な手という印象を拭えない」。
学校法人城西大学 中国吉林省・延辺大学を訪問
https://www.josai.jp/news/2014/20140925-27.html
”学校法人城西大学の訪問団一行は、2014年9月25日~9月27日の期間、中国の吉林省に位置する延辺大学を訪問しました。延辺大学は朝鮮族が40%以上占める延吉市に位置し、鮮明な民族特徴を有する総合大学として中国政府の「211工程」(中国国内のベスト100大学)に認定されています。学生数は20,000人を越え、大学院生も多く、韓国、北朝鮮、ロシア、日本などとの交流が盛んです。〜中略〜 今回、水田理事長と森本学長に名誉教授が授けられました。”
学校法人城西大学 役員 役職員
https://www.josai.jp/about/director/
理事長上原 明
理事・学長(城西大学)藤野 陽三
理事・学長(城西国際大学)杉林 堅次
理事・常務理事水田 博久
理事
浅島 誠
小野 元之
白幡 晶
羽入 佐和子
吉本 高志
監事
西村 正紀
山口 善久
水田家(大蔵大臣・水田三喜男・水田宗子の家系図)
https://keibatsugaku.com/mizuta/
学校法人城西大学理事長 水田宗子の人生ノート
https://www.josai.jp/chancellor/diary/life/pdf/20100305_lifenotes.pdf
水田 三喜男(みずた みきお、1905年4月13日 - 1976年12月22日)
政治家。城西大学創立者。自由民主党政務調査会長(初代)。
大蔵大臣を数度に亘り務めたほか、経済審議庁長官や通商産業大臣など経済閣僚を歴任した。
戦後日本の代表的な財政家でもある。