今更…ですが、
日本の外務省が、
1950年代の米公文書を公開しないように頼んでいたことが、
情報自由法に基づき公開された公文書によって新たに解った。
調査したのは、西日本新聞。
1987年当時、外務省は、米政府に対し、
核兵器の持ち込みに関する密約を含む
50年代後半の日米安全保障条約改定交渉など、
広範囲にわたる日米関係の米公文書の非公開を要請。
米側は、密約などについて、要請通り非公開としていた。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/world/article/299073
ずっと嘘だったんだぜ! ほんと糞だったんだぜ!
「原子力=核」 日本人は核アレルギーだというけれど、
地球上に核に抵抗力がある生命体がいる?
今夜は、
日本で唯一のノーベル平和賞受賞者となった佐藤栄作、
その密使として、
1969年、沖縄返還密約交渉にあたり、
「密約があった」ことを暴露し沖縄に謝罪、自死した
若泉敬 という人物について書こうと思う。
若泉敬の遺著『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』…
他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス…
他策はなかったと信じたい…
これは、陸奥宗光の外交秘話「蹇蹇録(けんけんろく)」
の中から採った一節だ。
〜〜「畢竟我にありてはその進むを得べき地に進み
その止まらざるを得ざるに止まりたるものなり
余は何人を以て此局に当らしむるも
亦決して他策なかりしを信ぜむと欲す」
↓現代語訳
「結局、私にできることは、進めるところへ進み、
止まらなくてはならなければ止まることである。
私は、当時、誰がこの局面に当ったとしても、
決して、これ以上の策はなかったと信じたい。」〜〜
これは、明治の外務大臣・陸奥宗光が、
日清戦争で日本が清国に勝ったことにより、
1895年4月下関条約で遼東半島の割譲を
日本が要求していることに、衝撃を受けた露、独、仏が、
清に返還することを求めた三国干渉について記した
外交録の「蹇蹇録」の一文である。
蹇蹇録には、他にも、
1894年(明治27年)の日清戦争開戦の動機は、
はっきりと日本の国益のみのための戦争であって
義侠の精神は全くない、と書かれている。
内村鑑三は当初、中国の不当な朝鮮支配を打破するための義戦であると唱え、
日本の世論もだいたいにおいてこれに一致していたが、これは欺瞞であった、
ということを言ったのだ。
このような明治の外交官・陸奥宗光の心境になぞらえて著した
沖縄返還実現のために「有事の核持込みを容認する」
佐藤首相の密使として交渉にあたった若泉敬の告白だ…。
この著書の出版後、1994年5月の国会で
村山富市(日本社会党)が、若泉敬の著作を取り上げて、
羽田総理に密約について追求した。
村山「核持ち込みを日本が事実上認めるという秘密協定に署名されていた事実が、
最近になって当時の佐藤総理の特使によって暴露されました。
沖縄では、この四月、二日間にわたって米軍のF15など軍用機二機が墜落、
県民の不安は募っているやさきのことであります。
直ちにこの席で真相を御報告いただくとともに、
羽田内閣はこの密約に拘束されると考えるのかどうか、
それともあくまで日本の非核三原則を守るのかどうか、
明らかにしていただきたいと思います。」
羽田「一九六九年の佐藤・ニクソン密約の真相いかん
というお話でございましたけれども、
これはもう再三私どもの先輩たちがお答えしてきておりますように、
〈御指摘のような密約が交わされたとの事実はない〉ということであります。
そして非核三原則、これは当然のことながら、
私どもも堅持をしていくということを
明確に申し上げておきたいと思っております。」
羽田は、若泉敬の文字どうり命賭けの告発を、
一言のもとに否定したのである。
戦後、米軍の施政権下にあった沖縄の返還にあたり、
日本側は、米軍基地に貯蔵されていた「核の撤去」を求め、
一方、アメリカ側は、返還後も基地を自由に使用することのほかに、
「緊急時の核の再持ち込みと通過の権利」を求めた。
若泉は、米側の交渉相手である米大統領補佐官のキッシンジャーとの
壮絶な交渉の末、次の文言を盛り込むことで合意した。
〈日本国政府は、大統領が述べた前記の重大な緊急事態が生じた際における
米国政府の必要を理解して、かかる事前協議が行なわれた場合には、
遅滞なくそれらの必要をみたすであろう〉
アメリカは「遅滞なく必要をみたす」との言質をとることで、
有事に核を持ち込める。
日本は「事前協議が行われなければ」、
「核兵器の持ち込みはない」と言い逃れできるというわけだ。
この密約は、佐藤とニクソン、
若泉とキッシンジャーの4人しか知らなかった。
佐藤首相は、重要な外交問題にあたり、
外務省ではなく、一国際政治学者である若泉敬を重用し、
京都産業大学という私立大学の教授でありながら、
ヨシダというコードネームでキッシンジャーと切り結び、
内閣総理大臣の密使を務めたのである。
1994年、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』の上梓後、
6月23日付で沖縄県知事・大田昌秀に、
「拙著の公刊によって沖縄県民の皆様に
新たな御不安、御心痛、御憤怒を惹き起した事実を切々自覚しつつ、
歴史に対して負っている私の重い『結果責任』を取り、
国立戦没者墓苑において自裁(自殺)します」とする遺書を送り、
同日、ー国立戦没者墓苑に喪服姿で地面に正座し祈りを捧げたが、
自殺は思いとどまった。
その後、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』英語版の編集に着手し、
完成稿を翻訳協力者に渡した1996年7月27日、
福井県鯖江市の自宅にて逝去(享年67)。
青酸カリでの服毒自殺だった。
若泉の自殺の報を聞いた大田昌秀は
「核密約を結んだことは評価できないが、若泉さんは交渉過程を公表し、
沖縄県民に謝罪し、『結果責任』を果たした。人間としては信頼できます」
とコメントしている。
遺言書のようなこの著書の後書きには、
次のように記されている。
「敗戦後半世紀間の日本は『戦後復興』の名の下に
ひたすら物質金銭万能主義に走り、
その結果、変わることなき鎖国心理の中で
いわば〝愚者の楽園〟と化し、
精神的、道義的、文化的に〝根無し草〟に
堕してしまったのではないだろうか」
文藝春秋から、1994年に刊行され、
2002年、英訳版『The Best Course Available:
A Personal Account of the Secret
U.S.-Japan Okinawa Reversion Negotiations』が発行された。
若泉敬は、英訳版編集に取り組み、
完成稿を翻訳協力者に渡した1996年7月27日、
福井県鯖江市の自宅にて自死した。
後には、改訂版が、2009年10月、
新装版が2011年2月に出版された。
311東北大震災 福一原発事故発生の直前の再版ということになる。
若泉敬は、報告書『中共の核実験と日本の安全保障」を
1964年に佐藤首相に提出していた。
類似したタイトルの『中国の核武装と日本の安全保障』と題された論文を
中央公論(1966/2月)にも寄稿している。
(東京新聞 2013年2月26日記事の概要↓)
1964年、中国が核実験に成功し、佐藤のブレーンだった若泉は、
その対応策として核兵器に転用可能な原子力技術を高めるべきだとする報告書を
まとめ、首相直属の内閣調査室(内調、現・内閣情報調査室)に提出。
佐藤政権下で核保有をめぐる水面下の政策論議につながった。
核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」という佐藤首相が唱えた
1968年の「非核三原則」にも影響を与えた可能性が高い。
若泉氏は報告書で、あくまでも自ら核武装はしないという国是を貫き、
核武装の潜在能力を持つべきであり、
原子力の平和利用に大いに力をそそぐと共に、
他方では日本が国産のロケットによって日本の人工衛星を打ち上げる計画を
優先的に検討するよう提案。
原発建設や宇宙開発に取り組むよう提言していた。
外務省内に設置された、
いわゆる「密約」問題に関する調査チームの委員でもある
元共同通信、早稲田大学教授・春名幹男は、
若泉敬について次のように評している。
〜〜若泉氏は佐藤首相のブレーンとして、現在も日本の基本政策である「核政策4本柱」(非核3原則の厳守、核軍縮、米の核抑止力依存、原子力の平和利用)を起草し、首相が1968年1月に国会で初めて表明した。今回見つかった報告書にはこの4本柱の動機が鮮やかに記されている。若泉氏は当時30代の若さで、日本の核政策の針路を形成したことになる〜〜
2009年9月、
鳩山政権下で、岡田外相は、外務省において、
「いわゆる『密約』問題に関する有識者委員会」を立ち上げ、
最終的に、
佐藤がニクソンと交わした、有事の際に沖縄への核持ち込みについて、
事前協議が行われた際には日本側が「遅滞なく必要を満たす」ことを
明文化した密約の文書が確認されたが、
〈外務省の中で引継ぎがされた形跡がない〉という理由から
日本政府として米国政府と密約したことは確認できないと結論づけた。
2010年4月、衆院外務委員会(鈴木宗男委員長)において、
有識者委報告書で、1960年の日米安保条約改定時に
「核搭載艦船の寄港・通過」は事前協議の対象外とする密約について、
坂元一哉(阪大教授)や春名幹男らを招き、参考人質疑を行った。
「文書の途中が抜き取られていたり、
実物がないのにコピーのみが残っている。」
「意図的な廃棄があったとすれば
その動機が問われなければならない」と指摘し、
前の参考人質疑で、東郷和彦元外務省条約局長も
密約重要文書の一部が破棄された可能性に言及していたことも含め、
外務省側に事実関係の解明を求めた。
東郷和彦元外務省条約局長は、
「前任局長から核持ち込み密約の引き継ぎを受け、
後任局長の谷内正太郎に引き継いだ。」と証言。
「2001年の情報公開法施行前に破棄されたという話を聞いた」とも述べた。
しかし、谷内正太郎は、調査委員会の聞き取り調査を受け、
文書の破棄を否定した。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/mitsuyaku/pdfs/hokoku_yushiki.pdf
つまり、民主党 岡田外相の密約調査委員会は、
東郷〜谷内に引き継がれたはずの、
消えた密約文書は、見つけられず、尻尾はつかめなかったのだ。
谷内正太郎の言い分は、こうだ。
「核を含む大量破壊兵器の脅威が存在する今、
事実関係をすべて明らかにすべしと考えるのは時期尚早だ」
「日本は非核三原則だけど、実際は核が持ち込まれているんじゃないかと
近隣諸国に思われる状況は、核の傘の信頼性をあげている面がある。
一番いいのは非核2.5原則か2原則にして、
持ち込むことはいつでもありうるんだと認めることだ。
でもそれは政治的に無理だろう」
さて、
谷内正太郎といえば、安倍現総理に異例の厚遇を受ける側近で、
直近では、安倍の特命で、外務省を排し跨ぐ形でロシア外交を行い、
北方領土返還交渉をにらんでプーチン訪日を進めてきた。
日本版NSC 初代・国家安全保障局長である。
元外務事務次官、元内閣官房参与、
現在は、2014年に発足したNSCの事務局・国家安全保障局長、
兼 内閣特別顧問(国家安全保障担当)。
最速で頂点に上り詰めた官僚である。
そして、
若泉敬が、佐藤の密使を務めていた時期、
谷内正太郎は、若泉の弟子だった。
〜外交の戦略と志 - 前外務事務次官谷内正太郎は語る
谷内 正太郎・著 / 高橋 昌之(産経記者)・聞き書き
わが師・若泉敬を語る〜によると…
〜〜谷内「そうです。私が学生で、若泉さんは防衛研究所の教官をしていました。若泉さんがやっていたというよりも、若泉さんがメンバーだった「土曜会」という組織があって、若泉さんはその組織の先輩だったわけです。だから最初は先輩、後輩として知り合って、やがて私が大学院に通い始めて、新聞の切り抜きなど、先生のお手伝いも少しさせていただき、その後、私が外務省に入省してからは、独身寮に入れなかったので先生のお宅に居候させていただいたこともありました。」〜〜
谷内正太郎は、
沖縄日米密約機密文書を焼却して証拠隠滅をはかったと
疑われている人物である。
佐藤総理のブレーンが、若泉敬…
安倍総理のブレーンが、谷内正太郎…
谷内正太郎は、
原発の「東京電力」や、スーパーゼネコンの「鹿島」、
パチスロメーカー最大手の「セガサミー」にも、天下っていた。
谷内正太郎は、2013年、週刊文春に、
安倍政権にカジノ構想実現を強く働きかけていたセガサミー会長の里見治と、
同社の顧問を務めるなど、親密な関係にあり、
セガサミー社のゲーム機の中国輸出解禁にも協力していると報じられた。
また、谷内が主催する政経勉強会「寛総会」の事務局長は、
大阪の不動産会社(地上げ屋)「メイセー」の元社長・金田直己であり、
谷内と金田の両者は、個人事務所を登記・入居させているビルも同じ、
という深い関係にあった。
「寛総会」の会合は1998年から2ヶ月に一度のペースで開かれており、
メンバーは、主催の谷内の他、事務局長・金田直己、
鹿島建設・中村満義社長、警察庁元長官・佐藤英彦弁護士、
朝日新聞・木村伊量社長、 東大大学院教授・小寺彰、
東京電力・南直哉元社長など15名。
金田直己が経営していた地上げ屋「メイセー」は、
バブル崩壊後に多額の不良債権を抱え大きな社会問題となった「住専」から、
600億円もの多額融資を焦げ付かせ、
役員を務める大蔵官僚出身で元衆議院議員の村田吉隆に
2000万円もの高額報酬を支払っていたことも報じられている。
金田直己とは、別名・金徳吉。
キム・ドギル(日本名・金田直己)。
公安当局がKCIAエージェントとして認知している在日韓国人であり、
駐日韓国大使館の一等書記官の指揮下で、
活動していた韓国中央情報部工作員KCIAである。
韓国の情報通信部と日本の総務省、経済産業省の協力を得て
『Korea IT Network JAPAN』を結成し会長として日韓の情報交換の場とした。
漫画版権管理会社「MANGA RAK」 の経営者でもある。
*キム・ドギル(日本名・金田直己) 1946年大阪生まれ。ソウル大学留学(工学部中退)、同志社大学法学部中退。1966年父が他界して事業を継承。エイアイエス株式会社を設立、会長に就任。2007年小池一夫劇画村塾株式会社を設立、社長就任。日韓経済協会などで20年以上活動する。東西大学等の客員教授を務め講演多数。関西経済同友会会員。関西経済連合会会員。
金田「生まれ育った環境とわずか1年間だが韓国留学が私に民族の血を注ぎ込んだと思う。3歳まで育ったところは大阪東部の朝鮮部落で、狭い空間に在日一世が抱き合う様に暮らしていた。同胞同士、頼母子講をやりながら助け合って暮らしていたイメージが脳裏に刷り込まれた。私の原点はその朝鮮部落であり、親近感があった。」
http://www.toyo-keizai.co.jp/news/society/2007/post_525.php
(密使・若泉敬〜沖縄返還の代償 ↓動画)
http://video.fc2.com/content/20130622KBZt0CYy/
↧
愚者の楽園=詐欺犯罪国家・日本 〜佐藤栄作 × 若泉敬 / 安倍晋三 × 谷内正太郎
↧