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【コロナ禍の8月6日原爆の日】国民の命を軽んじる日本政府『封印された原爆報告書』

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“Seventy-one years ago, on a bright cloudless morning,
death fell from the sky and the world was changed.”
“71年前、晴れ渡った雲一つない朝、
死が空から落ちて来ました。そして、その世界は変えられました。”

米国大統領として初めて広島に訪問しスピーチしたオバマはこう言った。

そうではない。

米軍が、1945年(昭和20年)8月6日(月曜日)午前8時15分、
原子爆弾「リトルボーイ」を投下したのだ。
B29爆撃機エノラゲイの操縦席には、
セクシーな「ギルダ」のリタ・ヘイワースの写真が飾られていた。


被爆76年 広島平和記念式典|菅総理挨拶|2021年8月6日

原爆忌あいさつ読み飛ばし 「核なき世界へ…」菅首相陳謝
2021年08月06日12時13分
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021080600334&g=pol
 菅義偉首相は6日、広島市で開かれた平和記念式典のあいさつで、事前に用意した原稿の一部を読み飛ばした。政府は直後に訂正。首相はその後の記者会見で「おわびを申し上げる」と陳謝した。
 首相は「わが国は、核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国であり、『核兵器のない世界』の実現に向けた努力を着実に積み重ねていくことが重要だ」などのくだりを読み忘れた。
 式典に参列した公明党の山口那津男代表は会見で「核兵器のない世界を目指す一貫した政府方針に何の揺らぎもないと思う」と首相を擁護した。




NHKスペシャル 2010年『封印された原爆報告書』

アメリカ国立公文書館に、181冊1万ページにおよぶ「原爆被害の実態を調べた報告書」が眠っていた。
まとめたのは、1300人に上る日本の医師と科学者の医療調査団。
被爆地でしか得る事ができない原爆の詳細なデータをあつめていた。
報告書は181冊。10000ページに及ぶ。
そこに記されていたのは、被爆国日本自らが調べあげた生々しい被害の実態である。
学校にいた子供たちが、どこでどの様に亡くなったのか、
教室の見取り図に丸印で書き込まれている。
放射線が人間の臓器をどう蝕んでいくのか、
200人を超す被爆者の遺体を解剖した記録もあった。
調査の対象となった被爆者は20000人にのぼった。
治療はほとんど行われず、原爆が人体に与える影響を徹底的に調べていたのである。
報告書は、全て日本人の手で英語に翻訳されていた。
被害の実態を調べた貴重な記録は、原爆を落とした国アメリカへと渡されていた。
原爆調査を知る数少ない関係者を日本とアメリカで取材した。
浮かびあがってきたのは、被爆者の救済よりも
アメリカとの関係を優先させていた日本の姿である。
唯一の被爆国として原爆の悲惨さを世界に訴えてきた日本。
その一方で被爆者のために生かされる事のなかった181冊の報告書。
封印された報告書は何を語るのか。
この貴重な資料は、戦後のアメリカの核開発にいかされ、被爆者のために役立てられることはなかった。
長年封印されてきた報告書をもとに、日本が被爆の現実とどう向き合ってきたのか検証する。


アメリカ調査団の代表オーターソン大佐に報告書を渡していたのは、陸軍省医務局の幹部だった。
小出策郎軍医中佐。30代の若さで医務局に入ったエリート。
なぜ終戦前から軍が独自に調べていた情報をアメリカに渡したのか。
当時の事情を知る人物、陸軍軍医少佐三木輝雄氏。
陸軍軍医のトップ医務局長を務めた父をもつ。
三木氏は終戦時は軍全体を指揮する大本営に所属していた。
報告書を提出した背景には占領軍との関係に配慮する日本側の意思があったという。
「いずれ要求があるだろうと。
その時はどうせ持っていかなきゃならないというんで、
早く持って行った方が心証が良いだろうと要求がない内に持って行った。」
何のために心証を良くするのか?
「731(部隊)の事もあるでしょうね。」
三木氏がいう731部隊は、生物化学兵器などの効果を確認するために満州で捕虜を使った人体実験を行なったとされる特殊部隊である。
終戦を前にしたポツダム会談で、アメリカをはじめとする連合国は、捕虜虐待などの戦争犯罪に対し、厳しい姿勢で臨むことを確認していた。
小出中佐は、陸軍の戦後処理を任された一人だった。
終戦を迎えた8月15日、小出中佐に出されていた極秘命令。
「敵に証拠を得られることを不利とする特殊研究は全て証拠を隠滅せよ。」

大本営にいた三木さんは、動揺する幹部たちの姿を直近で見ていた。
戦争犯罪への疑惑から逃れる為にも戦後の新たな日米関係を築く為にも、
原爆報告書を渡す事は当時の国益に叶うものだったという。
「新しい兵器を持てば、その威力は誰でも知りたいものですよ。
カードがあれば、有効なカードはあまりないんで、原爆の事はかなり有力なカードだった。」

自ら開発した原子爆弾の威力を知りたいアメリカ、
そして、戦争に負けた日本。
原爆を落とした国と落とされた国。
二つの国の利害が一致したのだ。

原爆投下から2ヶ月、アメリカの調査団が入ってくると、
日本はその意向を強く受けて調査に力を入れる様になる。
小出中佐に代わって、アメリカ調査団との橋渡し役を務めるようになったのが、東京帝国大学の都築正男教授だ。
都築教授は、放射線医学の第一人者で当初から陸軍と共に調査に当たってきた。

報告書番号14
都築教授と陸軍が共同で作成したこの報告書の中に、当時アメリカが最も必要としていたデータがあった。
原爆がどれだけの範囲にいる人を殺す事ができるのかを調べた記録である。
対象となったのは、広島市内で被爆した17000人の子供たちだった。
どこで何人死亡したのか、70箇所で調べたデータが記されている。
爆心地から1.3キロにいた子供たちは、132人中50人が死亡。
0.8キロでは560人全員が死亡。
8月6日の朝、広島市内の各地に大勢の子供たちが学徒動員の作業に駆り出されていた。
同じ場所でまとまって作業していた子供たちが原爆の殺傷能力を確かめるためのサンプルとされたのだ。

都築教授たちが調査を行なった背景には、アメリカからの要請があった。
アメリカ調査団の代表オーターソン大佐がこのデータに強い関心を示していたのである。
ワシントン郊外にあるアメリカ陸軍病理学研究所。
日本からのデータは全てここに集められた。
オーターソン大佐は、調査の結果を「原爆の医学的効果」と題する6冊の論文にまとめていた。
17000人を超す子供たちのデータから導かれたのは、ひとつのグラフだった。
爆心地からの距離と死者の割合を示す「死亡率曲線」である。
原爆がどれだけの人を殺傷できるのか、初めて具体的に表したこのグラフは、アメリカ核戦略の礎となった。
こうしたデータをもとにアメリカ空軍が行っていたシュミレーション。
ソビエトの主要都市を攻撃する為に広島型原爆が何発必要かを算出していた。
オーターソン大佐の研究を引き継いだジェームス山﨑氏。
「死亡率曲線」は広島と長崎の子供たちの犠牲がなければ得られなかったという。
「画期的な発見でした。
 原爆の脅威的な殺傷能力を確認できたのですから。
 アメリカにとって極めて重要な軍事情報でした。
 まさに日本人の協力の賜物です。
 貴重な情報を提供してくれたのですから。」
建物疎開の作業中に被爆し、多くの同級生を失った佐々木妙子さん。
友人達の死が、日本人たちの手によって調べられアメリカの各戦略に利用されていたことを初めて知った。

国の粋を集めて行なった原爆調査。
参加した医師はどのような思いで被爆者と向き合ったのか。
山村秀夫さん。都築教授が率いる東京帝国大学調査団の一員。
当時医学部を卒業して2年目の医師だった。
調査は全てアメリカのためであり被爆者のために行っている意識はなかったという。
「結果は日本で公表する事ダメだし、
 お互いに持ち寄って相談する事もできませんから、
 自分たちが調べたものはアメリカに出すと…。」
山村さんが命じられたのが、被爆者を使ったある実験だった。

報告書番号23
山村さんの論文。
被爆者にアドレナリンという血圧を上昇させるホルモンを注射し、
その反応を調べていた。
12人のうち6人は僅かな反応しか示さなかった。
山村さんたちは、こうした治療とは関係ない検査を毎日行なっていた。
調べられる事はすべて行うのが調査の方針だったという。
今となってみたらどう感じるか?
「もっと他にいい方法があったのかもしれませんけど、
 今と全然違いますからね。その時の社会的な状況がね。」

亡くなった被爆者も調査の対象となった。
救護所で亡くなった被爆者は仮説の小屋などに運ばれて、次々と解剖されたという。
200人を超す被爆者の解剖結果は14冊の報告書にまとめられている。
その一冊に子供の解剖記録が残されていた。

報告書番号87
解剖されたのは長崎で被爆し亡くなったオノダマサエさん。
まだ11歳の少女だった。
マサエさんの遺体はどのような状況で提供されたのか。
長崎の遺族を訪ねた。
マサエさんの甥に当たる小野田博行さん。
小野田政枝さんが解剖された経緯を父・一敏さんから聞いていた。
政枝さんは長崎市中心地の救護所に運ばれていた。
兄の一敏さんが駆けつけたとき政枝さんは高熱にうなされ衰弱し切っていた。
「亡くなる少し前に、兄ちゃん家に連れて帰って。
 その言葉が最後だったらしいです。」
一敏さんが政枝さんの遺体をおぶって帰ろうとしたとき救護所の医師たちが声をかけてきたという。
「将来のために妹さんを解剖の方にあずけてもらえないかと。
 断りを入れたらしいですけど…
 沢山の亡くなった方の状況を見ておりますもんで、
 お与えする気になったんじゃないかと思うんですよね。
 やっぱり、将来のためにという思いで。」
被爆者のために役立てて欲しいと医師に託された政枝さんの遺体。
その後どうなったのか知らせらる事はなかった。
政枝さんたち被爆者の解剖標本は、報告書と共にアメリカに渡っていた。
放射線が人体に及ぼす影響をより詳しく知るために利用された。
そして、昭和48年、研究が終わったあと日本に返還され今は広島と長崎の大学に保管されている。
小野田政枝さんの標本が長崎大学にあることがわかった。
政枝さんは、肝臓や腎臓を摘出され、5枚のプレパラート標本になっていた。
アメリカで付けられた標本番号は、249027…
原爆被害の実態を伝えて欲しいと提供された11歳の身体が、被爆者のために活かされる事はなかった。

原爆投下直後から行われていた国による被害の実態調査。
その詳細が被爆者に明らかにされる事はなかった。

平成15年から全国で相次いだ原爆症の集団訴訟。
自分たちの病気は原爆によるものだと認めてほしいと訴える被爆者に対し、国はその主張を退けてきた。
30年以上、被爆者の治療に携わり、原告団を支え続けてきた医師の斎藤紀さん。
181冊の報告書の中に、被爆者の救済につながる新たな発見はないか。
斎藤さんが注目したのは、ある医学生が書いた手記だった。

報告書番号51
ここに国が認めてこなかったある被爆の実態が綴られていた。
手記の筆者は、門田可宗さん。当時19歳。山口医学専門学校の学生だった。
門田さんが広島市の中心部に入ったのは、原爆投下の4日後のことだった。
直接被爆をしていないにも関わらず、門田さんに原爆特有の症状が現れる。
街に残った放射線による被爆。いわゆる「入市被爆」である。
長年、国は「入市被爆」による人体への影響はないとしてきた。
しかし、門田さんの手記に書かれていたのは、直接被爆した人と同じ症状だった。
「8月15日 熱は39度5分まで上がる。
 8月17日 歯茎と喉の痛みが増す。
 8月19日 身体中に多数の出血斑」
門田さんを不安に陥れたのが、19日の出血斑。
「私も原爆の被害者なのか。
 いや、そうではない。
 8月6日 確かに私は広島にいなかったではないか。
 不安のあまりその日は眠れなかった。」
8月30日、門田さんは被爆者の症状について解説した新聞記事を目にする。
そこに書かれていたのは自分と同じ症状だった。
「私の症状は被爆者の症状とまったく同じではないか。
 ああ、なんということだ。
 私も原爆の被害者になってしまったのだ。」

斎藤医師は、門田さんの報告書がありながら国がこれまで「入市被爆」の影響を否定し続けてきたことに、憤りを感じている。
「今まで考えられてきた、
 「入市被爆」者の原爆症の被害はないんだという考え方が
 根底から崩れてしまうというような意味をこれは持っているんですね。
 65年も埋もれさせられていた。」

原爆症訴訟でも長年国を訴えてきた被爆者のなかにも、門田さんと同じように「入市被爆」した女性がいた。
斎藤泰子さん。被爆が原因と見られる大腸癌で亡くなった。
当時、4歳だった泰子さんが母親に連れられて疎開先から戻ったのは、原爆投下後の5日後だった。
親戚を捜しに爆心地近くに入り一緒に歩き回ったという。
しばらくすると泰子さんに高熱や下痢など被爆によると見られる症状が現れた。
その後白血球が減少するなど原爆の後遺症に悩まされ、59歳の時大腸癌を発症。
原爆症と認めてほしいと訴えたが、国は「被爆はしていない」と退け続けた。
泰子さんの最後の法廷での言葉。
「私は末期癌で余命幾ばくもないことを医師から言われております。
 もう私には時間がありません。 
 国は私のような「入市被爆者」の実態を分かっていません。
 多くの入市被爆者が私以上に苦しんでいます。」
勝訴判決が出たのが泰子さんが亡くなって3ヶ月後の平成19年のことだった。
母の幾さんは、門田さんの報告書の存在がもっと早くわかっていれば、泰子さんが生きているうちに救済されたのではないかと思っている。
「間に合いませんでした。
 本当に可哀想ですよね。遅すぎましたね。」

一人の医学生が書いていた「入市被爆」の報告書。
筆者の門田可宗さんが岡山、倉敷で生きていた。
斎藤医師が門田さんを訪ねた。
門田可宗さん84歳。65年間、原爆症の恐怖と闘い続けてきた。
心臓や腎臓を煩い療養中だった。
門田さんによると日記を書いたのは山口の医学専門学校に戻ってからだった。
山口まで訪ねてきた東京帝国大学の都築教授に日記を書くよう勧められた。
「当時研究者で名前がナンバーワンで出てきたのは、
 都築先生ですからね。
 わざわざ山口医専までおいでになったんです。
 直接面談しましてね、いろいろ質問されたりしましたね。
 その時に、今から日記を詳細につけるようにと言われたんですね。
 それで日記だけはつけておこうと思ったんです。
 オーターソンというアメリカの軍医が
 熱心に僕の手記を求めていることもわかった訳ですよ。」

報告書の最後に門田さんは自らの思いを記していた。
〜医学の発展のため原爆症の研究のため私はこの手記を書いた。
もしこれが役立つなら私は非常に幸せである。〜と書いている。
 
一人の医師の使命として自らの被爆体験を後世に遺そうとした門田医師。
その思いは届かなかった。

被爆者の記録が、被爆者のために活かされることはなかった。
世界で唯一の被爆国でありながら自らの原爆被害に目を向けてこなかった日本。
封印されていた181冊の報告書がその矛盾を物語っている。


 



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