「原子爆弾」の開発の始まりについて、
恐ろしい事実を知った。
1940年5月に、イギリスで、
ウラン爆弾の実現可能性を探る
科学者による「MAUD委員会」が組織され、
その報告書がアメリカに伝えられ、
1942年10月、マンハッタン計画が開始された。
しかし、その数年前から、
ウラン鉱山の開発を開始(1938)し、
日本の原爆製造計画は始まっていたのである。
「安全保障関連法案に反対する学者の会」発起人である
学習院大学教授・東京大学名誉教授・佐藤学先生云はく、
「敗北を抱きしめて」で有名な
ジョン・ダワーの未翻訳論文が明らかにしているのは、
原子爆弾の研究を最初に始めたのは日本だったという
衝撃的な事実だという。
日本に次いでナチスドイツが研究を始め、
日本とドイツは開発に失敗するが、
遅れを取ってはならないと研究を進めたアメリカが、
開発に成功し、広島、長崎に原爆投下したのである。
第二次世界大戦中、軍部には二つの原子爆弾開発計画が存在していた。
大日本帝国陸軍の「ニ号研究」(仁科の頭文字より)、
大日本帝国海軍のF研究(核分裂を意味するFissionの頭文字より)であった。
この「原子力爆弾」開発チームの中心人物は、
戦後の民主的科学運動のリーダーとなった者達であった。
731部隊(関東軍防疫給水部本部)の生物兵器の開発と人体実験は、
日本の軍学共同の忌まわしい軛として有名だが、
原爆開発、人体実験も同時に行われていた事になる。
戦後、1949年に発足された日本学術会議は、
軍事研究に携わった戦争への反省から
「科学者としての態度を反省し、
今後は科学が文化国家、平和国家の基礎である」と宣言した。
これが日本の研究者の指針になってきたはずである。
しかし、軍学共同は2004年ごろから始まり、
2014年、第二次安倍政権の下で急速に進展している。
◆軍学共同(大学・研究機関における軍事研究)反対アピール
◆軍学共同の現在と学術の将来
名古屋大学栄誉教授 池内了 2016年6月1日付
恐ろしい事実を知った。
1940年5月に、イギリスで、
ウラン爆弾の実現可能性を探る
科学者による「MAUD委員会」が組織され、
その報告書がアメリカに伝えられ、
1942年10月、マンハッタン計画が開始された。
しかし、その数年前から、
ウラン鉱山の開発を開始(1938)し、
日本の原爆製造計画は始まっていたのである。
「安全保障関連法案に反対する学者の会」発起人である
学習院大学教授・東京大学名誉教授・佐藤学先生云はく、
「敗北を抱きしめて」で有名な
ジョン・ダワーの未翻訳論文が明らかにしているのは、
原子爆弾の研究を最初に始めたのは日本だったという
衝撃的な事実だという。
日本に次いでナチスドイツが研究を始め、
日本とドイツは開発に失敗するが、
遅れを取ってはならないと研究を進めたアメリカが、
開発に成功し、広島、長崎に原爆投下したのである。
第二次世界大戦中、軍部には二つの原子爆弾開発計画が存在していた。
大日本帝国陸軍の「ニ号研究」(仁科の頭文字より)、
大日本帝国海軍のF研究(核分裂を意味するFissionの頭文字より)であった。
この「原子力爆弾」開発チームの中心人物は、
戦後の民主的科学運動のリーダーとなった者達であった。
731部隊(関東軍防疫給水部本部)の生物兵器の開発と人体実験は、
日本の軍学共同の忌まわしい軛として有名だが、
原爆開発、人体実験も同時に行われていた事になる。
戦後、1949年に発足された日本学術会議は、
軍事研究に携わった戦争への反省から
「科学者としての態度を反省し、
今後は科学が文化国家、平和国家の基礎である」と宣言した。
これが日本の研究者の指針になってきたはずである。
しかし、軍学共同は2004年ごろから始まり、
2014年、第二次安倍政権の下で急速に進展している。
◆軍学共同(大学・研究機関における軍事研究)反対アピール
◆軍学共同の現在と学術の将来
名古屋大学栄誉教授 池内了 2016年6月1日付