倉本一宏先生のインタビュー第三弾。
古代の巨大な文書「日本書紀」は、
日本最古の歴史書であり、
正史だと言われているが、
倉本教授は、日本書紀は歴史書ではないと言う。
日本書紀は、書いた者にとって、
「時の権力の正統性を示す」ことを目的に書かれ、
「正しくなくても構わない」ものであり、
後世に歴史を伝えるためのものではない。
当然、「捏造」されて然るべき公文書だということになる。
倉本教授のような歴史学者の研究は、
例えば、「三韓征伐」
この捏造された説話の「背後に本当は何があったのか?」
日本書紀を書いた者は、この説話を「なぜ作ったのか?」
この説話は「どのような影響を及ぼしたのか?」
を正しく分析しようとするものだ。
現在、国家で進められている
五月雨式に発覚している各中央省庁の公文書の改竄問題の究明と
やろうとしていることは同じではないか!
奈良時代の官人が頭を振り絞った日本書紀の捏造が、
1300年もの時を超えて、現代の公文書改竄と
オーバーラップして映し出されるようだ。
倭国・百済・新羅の関係から見た日本と朝鮮半島の愛憎関係~
現代まで続く「東夷の小帝国」観念の起源に迫る!
.IWJ 国際日本文化研究センター教授・倉本一宏氏インタビュー!
2018.3.19
高句麗 …ロシア領を含む広大な国
元々の首都は今の中国なので、中国は高句麗を地方政権だと見ている。
韓国、北朝鮮では朝鮮の一部だと言っている。
両国間でギャップがある。
倭は、百済の要請を受けて出兵して新羅を支配下に置いたこともある。
この事実をもって半島全体を支配するという発想は、
伽耶、百済、高句麗が滅びて、新羅が今の北朝鮮領から南を統一する、
弱くて小さかった時の新羅を一時期占領したことがあるという事実をもって
半島の全部を自分たちより下位な属国なんだという発想で、
これが1つの誤りである。
その後、平安時代に、新羅が滅びる。
高句麗の後継者を自認する高麗が半島を統一するが、
日本貴族は高麗を新羅の後継者とみなして、
高麗も自分たちに服属すべきだという
滅茶苦茶な論理のすり替えを行った。
この発想によって、近代になるまで、
日本の支配者に「半島は日本に従属する」という感覚が
通奏低音として残ってしまった。
我々の朝鮮諸国と倭国 日本と中国の3国の関係が
入り混じってお互いに誤解を生んで
それが今まで続いている可能性がある。
中国は世界帝国なので、世界を支配している。
朝鮮諸国は、全部自分たちに朝貢してきて冊封を受けている。
これらの王は中国が認定した王であり、服属国ある。
倭国は倭の五王を除いては君子は一度も中国に冊封されていない。
倭国から見ると自分たちは中国に認定されていない独立的な王権だ、
だから偉いのだと考える。
しかし、中国から見ると倭国は冊封を求めない
天下の外にある超辺境の田舎の国なのだと考える。
朝鮮諸国は、自分たちは中国から冊封を受けているから文化が高いと考え、
倭国は、冊封を受けていないから自分たちより下なんだと思っている。
各々が手前に都合よく考える。
中国と日本、中国と朝鮮の間より問題なのが、
朝鮮諸国と日本との関係で、お互いが自分が上だと思っており、
この歴史が千年以上続いてきて、いきなり近代を迎える。
たまたま近代が始まった時に、
中国の清も、朝鮮も近代化に乗り遅れて弱くなった。
日本は、たまたま近代化できた。
それが、近代 北東アジアの悲劇の始まりなのだ。
ーー
近代とは、前へ進んだのではなく、復古である。王政復古である。
和魂洋才と言って技術は取り入れるが、
和魂とは何かと言って、ずっと遡って急に「日本書紀」に和魂を求める。
本居宣長のように日本書紀に書いてある神話を全て事実とする
乱暴な考えを明治維新政府が取り入れた。
明治維新政府が、イデオロギーを独自に作れなかったからである。
一方では水戸学を入れて史学を作り、
一方では国学者を入れて国民教育をやった。
きちんと積み上げてきた学問ではないところから
近代日本の歴史学や歴史教育が始まったところが問題である。
それが100年くらい続いてしまった。
古代だけが他者他国との関わりがある時代で、
そのあとはずっと外交というものがないので、
古代の他国との関係の歴史を検証することなく
捏造されたまま取り入れた。
奈良時代に日本書紀を作った段階では後世のことは考えず、
自分たちの政権をどう正当化するかということのために作った。
まさか千数百年も経ったあとまで影響力があるとは思っていなかっただろう。
藤原不比等や持統天皇は、
「自分たちがなぜこの国を支配するのか」を
正当化するために作った本がこれほど影響を及ぼすとは考えなかっただろう。
ーー
倭国というのは外交の専門家がいなかった。
外交文書を読み書きできる人がいなかった。
奴国(邪馬台国支配の一国 福岡博多)とか伊都国(福岡糸島郡)の段階で
渡来人がそれを担っていたはず。
漢書や後漢書をみると日本からの使節はかなり高級なことを言っている。
邪馬台国もそうである。
日本人にはそれができるとは思えないので、
渡来人が日本の外交ブレインになって、それが作っている。
聖徳太子もそうである。
百済からきた渡来人が日本の外交を動かしていて
その影響で百済と関係が深くなった。
「米」は百済から伝来している。
中国の江南地方から、半島の南西部、
そして、北部九州に稲作が伝わった。
大量に百済から人が来ているはずである。(弥生時代)
外交ブレインは、ある時は百済、ある時は高句麗の人がやってきた。
この影響はかなり強い。
オールドカマー、ニューカマーもいるが、
縄文人も渡来人。日本人はみんな渡来人。
何千年前か、千何百年前か、千年前か、百年前か、五十年前か、
色々な時期に渡来しているので、
朝鮮半島の南西部と中国の江南地方とベトナム北部をみると
ほとんど顔は一緒。北京は同じという感じはしないが南はかなり似ている
ベトナムもホーチミンは大分違うがハノイの人はかなり似ている。
稲を作っているところというのは、ひとつで元々同じ。
中国の江南地方から北に半島に行って日本に来た人と、
南に行ってベトナムへ行って米を作ってきた人は、
東アジア人として同一の存在なのではないかと思われる。
外交の力は大きい。
オールドカマーの倭人を日本の主体と考えると、
盟友関係にある百済からきた渡来人が大きな影響力をもっていて、
むしろ主導力をもっていて、
百済の渡来人は日本に来てレコンキスタ(国土回復運動)をやろうとしたのが
朝鮮半島出兵だったのではないか。
半島における対立が日本列島に来ても続いているはずである。
倭国の対朝鮮関係を投影させている可能性がある。
百済にとって新羅は完璧な敵国。仇である。
その仇をとってくれというのが「白村江の戦い」
緩衝地帯という外交戦略があった。
どこまで敵国がいれば日本列島は安全か、という発想。
独立国同士なら相手国に攻め込むという発想はないが、
超大国(中国)があっていつでも他の国に侵略しようとしていると、
中国の影響力が朝鮮半島南端まで及んだら日本は困る。
緩衝国(百済)があって倭国と仲良くしてくれていれば、
中国が世界制覇を目指してもまず緩衝国が戦ってくれて
その間に倭国は対策を考えればいい、という発想。
朝鮮南部には「鉄」があった。
日本が朝鮮南部にこだわったのは
鉄生産技術をもちたかったから。
日本は6世紀に鉄を作れるようになった。
伽耶から鉄のインゴットをもらってきて鋳潰して作った。
日本には青銅器が実用品としてきていない。(銅鐸は単なる祭器)
青銅器時代といのがない。鉄と青銅器は一緒に来た。
石器から鉄器に移行した。
武器が石か鉄かは7倍の差で威力が違うので鉄は重要。
伽耶から鉄をもたらすために領土にするか外交である。
伽耶が東半分は新羅に、西半分は百済に滅ぼされた状況で
伽耶(釜山から西)の鉄を得るためにどうすべきかを5-6世紀は考えた。
釜山と対馬で50キロの距離。
伽耶は日本にとって領土というよりも鉄の問題。
鉄は現代の石油よりも国にとって根本的な問題だった。
閉鎖的な縄文の時代からは大変な弥生人の渡来は、
大変なインパクトだった。
弥生人を受け入れて、稲作をし、混血をした。
それを逃れた人が北へ、島へ、山に逃れた。
山人や、蝦夷、文献にある鬼と言われるような人達。
平野にいる人たちには、殆ど抵抗なく「鉄と稲」を受け入れて
今の愛知県くらいまであっという間に広まった。
ただし、戦争が起こる。
縄文人は殆ど殺し合いをしていないが、
米は備蓄できるので財産になる。
自分で田んぼを切り開くより隣の村を滅ぼした方が早いので
増えた人口を隣の村に移植させて、
隣の村は中国に輸出品として送った。(奴隷貿易)
当時の秘本は特産品がないので人間を献上した。
弥生人を受け入れ、「鉄と米」によって
日本は内戦の国になってしまった。
ある意味、普通の国になった。
鉄と稲で、人口が増え、文明が発達して良いかというと、
縄文のままなら、どれだけ平和であったかわからない。
縄文は豊かだった。
ドングリは自然に落ちてきて、鮭は自然に登ってきた。
そのままの国ならペリーが来ても欲しいとは思わない。
欧米列強もそのままなら、金と銀が取れることを知らなかったかもしれない。
平和なまま、未開の日本列島として続いているかもしれない。
その方が幸せな日本人だったかもしれない。
ーーー
4世紀 倭国
『日本書紀』に書かれた神功皇后の
三韓征伐神話〜
高句麗の王、好太王の墓の碑に
「391年、倭が海をわたて百済、伽耶、新羅を破り臣民とした」
「その後、倭は高句麗に大敗した」
倭が百済の要請でやってきて新羅を占領したのは事実。
4世紀まで倭は海を渡って交流をしていた。
倭国とは、イコール日本かというと、
九州だけだったと考える人もいるし、
朝鮮半島の中の一部だという人もいる。
また高句麗が海を渡って日本に攻め込んだのだという人もいる。
倭人はいた。
朝鮮半島南部には前方後円墳はたくさんある。
兵隊は殆ど北部九州の人で、半島南部とルーツは同じ人。
これを命じたのはヤマトの王権(前方後円墳)だと思う。
三韓征伐の頃には、前方後円墳は3世紀後半の
100年以上前にできていてヤマト王権はできていた。
このヤマト王権は天皇とは異なる。明治政府は間違い。
日本の絶対年代は、
「369年」百済からもらった七支刀。
「倭国は百済から要請を受けて新羅、高句麗と戦って
新羅には一時的に勝ったが高句麗が援軍を送り大敗した」
新羅は白村江の戦いの後、朝鮮半島統一に成功。
倭、百済、高句麗、新羅との愛憎屈折を生む原因となった。
歴史書はどの国でも自分に好都合に書く。
つまり公文書は事実を改竄するが、
書かれていることが何か事実を反映しているので
そこを読み解くのが難しいところである。
ーーーー
5世紀
5世紀の倭国は中華帝国の冊封体制下にあった。
倭の五王とは、倭国の王、讃 珍 済 興 武がいたことは
「宋書」に記録がある。
讃 珍は兄弟、
珍の後継が済(血縁なし)
済の後継が興、武(血縁不明)
中国では姓のないものは奴隷。
五王らの姓は「倭」
例えば、「武」は「倭 武」と名乗っていた。
讃 珍 済 興 武の五王は、413〜478年の間に
少なくても9回は朝貢している。
因みに、4世紀以前の倭王権以前には冊封体制があった。
奴国(金印をもらっている)、伊都国が冊封体制があった。
ヤマト国(邪馬台国)は親魏倭王だから冊封されている。
*邪馬台国はヤマトコクの中国読み、
卑弥呼もヒメミコ(固有名詞ではない)の中国読み。
ヤマト、奴国、伊都国は冊封されていたが中央政権ではなく、
ヤマト国も含めて九州の地方政権である。
邪馬台国は畿内説と北九州説があるが、九州に決まっている。
ヤマト説はない。ヤマトは倭王権である。
ヤマト国は北九州である。
邪馬台国は日本列島の唯一の政権ではなく色んな地方政権の1つ。
中国は三国時代で3つ王権がある。(魏呉蜀)
たまたま「魏」と外交をもったのが邪馬台国。
「蜀」は日本列島の地方政権は外交をもっていないが、
「呉」(南京が中心)からは倭の土器も出てきているので交流はあった。
しかし、「魏」が統一を果たし、正当王権になるので、
『三国志』を作った時に、「魏」だけに外交資料が残り、
呉蜀の外交資料は破棄されたのである。
五王の先祖の前任者たちは、おそらく「呉」と外交を結んで
冊封を受けていた。(3世紀)
つまり、3世紀4世紀も5世紀と記録されているのと同じく
地方政権では冊封体制を受けていた。
ただし、5世紀、6世紀になっても九州だけは、別の政権があった可能性がある。
6世紀に筑紫 磐井が出てくる。
倭王権は百済と親しい関係にあったが、
磐井は新羅と外交を結んでいた。
倭王権から見ればこれが反乱に見えるが、
磐井が別の政権であったと言える。
邪馬台国の大和説、
「ヤマト王権」を「大和朝廷(天皇系統)」に結びつける説は危険である。
天皇家が万世一系だとする明治以降の歴史教育に結びつく。
中央政権の正統性を押し付け、
東北、北海道、沖縄、それぞれ地方には
地方の歴史があることを認めない思想は、危険である。
日本は、単一民族単一文化単一国家では全くない!
多様性を認めないのは危険である。
*新羅と親交のある九州の磐井の「磐井の乱」は反乱ではなく、
戦争なのである。
「ヤマト王権」のヤマトとは、「山門」であり、
山門は、九州に地名がたくさん残っている。
「ヤマト王権(邪馬台国)」は九州の地方政権である。
奈良県の大和ではない。
彼ら五王は、外国向け(中国向け)の名を名乗って外交していた。
「武」の後の朝貢は、継体天皇までブランクがあったと思われる。
つまり、空位(天皇がいない時)があったということ。
水戸学派が、空位があっては不味いと、
天智天皇と天武天皇の間に弘文天皇を作り出したが、
普通、空位はある。
水戸学も日本書紀を読んで空位があることを知っているはず。
水戸学の角さん(安積澹泊)は有名な歴史学者。
水戸黄門も歴史学者。
讃 珍 済 興 は、天皇かどうかは分からない。
武だけが検証された最初の天皇である。
仁徳も応神天皇も実在していない。
日本書紀で雄略天皇と言っているのが、
獲加多支鹵大王(ワカタケル)で、
それが「武」と名乗っている。
そのあとは、武の子供、
その子がいなくなった後は、播磨の山から拾って来た子供二人。
そのあとは暴虐な武烈天皇。
それがいなくなって北陸から継体天皇がきた。
継体のあとに尾張の娘との間の安閑天皇、宣化天皇
蘇我氏との間の欽明天皇。
そして、
欽明から後は、「日本書紀」に書いてあるとうり。
*「日本書紀」は奈良時代の舎人(とねり/下級官僚)が書いた。
「武」は実在し、武と継体天皇までの間は怪しい。
継体天皇と欽明までの間は怪しい。
継体天皇は実在したが、安閑、宣化が即位したかどうかは分からない。
欽明までがよく分かっていない。
血縁で支配者集団が1つの団体になるのは6世紀からあと。
大王家という家は、まだ倭の五王の時にはない。
ヤマト(邪馬台国)、奴国、伊都国が地方政権だとすると、
倭の〈五王は、のちの天皇家になる中央政権(奈良県 大和) 〉だった。
倭国王として冊封されたのは五王の時だけで、
そのあとの遣唐使、遣隋使は冊封を求めていない。
日本の歴史の中で冊封を受けたのは、足利義満だけ。
秀吉は拒否した。
日本の歴史からいうと琉球国だけが冊封を受けている。
五王の時代は特殊であるということ。
五王のうち、珍 済 興の時は、中国(宋)から新羅の軍事支配を認め、
徐々に朝鮮南部の軍事支配域を広げて認めてやる。
世界帝国の皇帝から朝鮮半島南部の軍事権を認めてもらっている。
実際に倭国が軍事権を行使したことはないが、新羅は朝貢はしている。
中国にとっては瑣末なことで、中国のこのいい加減な態度が、
倭国をつけ上がらせる。
これが、新羅がのちに朝鮮半島を統一した歴史があっても
渤海国が強くなったりすると外交の便宜上、朝貢したりもした。
新羅・伽耶に対する軍事指揮権が中国皇帝から認められたという
日本の「甘い記憶」として残る。
そして、日本は朝鮮南部を自分の朝貢国だと思い込み、
下位にみる間違いをおかす。
「武」の天下には朝鮮半島が入る。
天皇の天は、日本列島と朝鮮半島。
帝国になるには外国を支配しなければならないから、
日本列島には外国はないが、蝦夷と隼人を外国とし、
日本には百済王の子孫が住んでいるので朝鮮半島も天下の中にあるとし、
「天皇」になる。
東夷の小帝国から、近代の大日本帝国、大東亜共栄圏まで覇権国としての
欲望を肥大させていく。
倭国は、武の遣使以降は、倭国内で鉄の生産が可能になったので、
冊封体制から離脱。
ーーーー
中国も朝鮮も滅びるが、
日本だけは王権(天皇)が続いている。
蘇我氏の権力を藤原氏が継いで、
天皇家に入り込んで一体化した王権を作り、
それがずっと続いている。
それが明治維新、近代まで続いている。
ほとんど日本人には藤原氏の血が入っている。
天皇を象徴にしながら実験を握るという二重構造は、
蘇我氏の時代から始まっている。
あるいは蘇我氏の前の葛城氏から始まっている。
葛城氏の中から蘇我氏が出てきて
蘇我氏を受け継いだのが藤原氏なので、
5世紀くらいから日本列島の権力上層の構造は同じように続けてきた。
武士政権になっても、
武家の頭領になる人も藤原氏か天皇家から出てきている。
腐敗した貴族を打破するために、
農民が立ち上がって武士が出てきたのではなく、
貴族が地方に行ったのが武士である。
武士は、藤原氏か、天皇家から出てきた平氏か源氏。
藤原氏の中枢部分は天皇家から養子をもらっているので
皆、親戚みたいなものである。
日本書紀という公文書は、
中国に向けて、国内に向けて
日本の国の成り立ちを示すための巨大な文書であり、
「正しくなくてもいい」のである。
その時の王権が「どんな正統性をもって支配しているか」
もっと言うと、
その中の藤原氏が「どんな正統性をもって天皇家の補佐をしているか」
を示せば良いもの。
「天皇家がどのようにできているか」
「奈良時代の天皇家がなぜこの列島を支配できるか」
という根拠を示している。
それは、中国の皇帝とは全く違う
「万世一系の血筋によって成り立っている」
という虚構で彼らにとっては、それで良い。
中国というのは、正当な政治をやる王権は続き
正しくない政治をやると天が起こって革命が起こり、
王朝が交代する。
日本の場合は、正しい政治をやっているから
王権が続いているのではなく、
アマテラスから血筋が続いているから支配できると主張している。
日本書紀という「神話」は、
単にその時の持統天皇や文武天皇を守るために作ったのだろうが、
そのせいで、
軍事的指導者が実力で天皇個人を倒したとしても
倒したあとに自分で「神話」を作らなければならない。
新しい「神話」を作ることができないので、
それならば、軍事指導者は自分の天皇家の娘を妃にして
生まれた王子を天皇にした方が便利で簡単だということで、
天皇が続いてきた。
一方で、藤原氏は、ニニギノミコトが降りてきた(天孫降臨)時に、
一緒について行ったのが自分(天児屋命アメノコヤネ)だ
という神話を作った。
天皇家が続けば、藤原氏は天皇家に着いてずっとそれを補佐するのだ、
という虚構を作っている。
それを根拠にして藤原氏は現代まで続いている。
これを根本からくつがえして、
新しく作り直すのは、非常に大変なこと。
信長、秀吉、足利義満、幕末、マッカーサーなど、
それを覆せる可能性のあった人が何度もでてきた。
しかし、それを壊して新しい神話を作るよりも、
その神話を利用してやることの方が簡単で効果がある事を、
アメリカですら気づいたのである。
アメリカさえも、昭和天皇を辞めさせて共和制にするよりも、
昭和天皇を使って戦後統治をした方が楽だ、
とアメリカの学者は日本を研究して気づいた。
かくして、いまだにずっと御座位なさっている。
ここまで来ると、たぶん誰にも覆せない状況にある。
我々の気持ちの中に、「世襲」という感覚が入ってしまっている。
会社、政治家、芸能人、スポーツ選手、
歌舞伎などは最たるもの。
この「世襲」という感覚は、天皇と藤原氏である。
ーーー
中国や朝鮮半島に対する
侮蔑や嫉妬の入り混じった日本の奇妙な感情は、
長く外交を行なっていないからである。
日本書紀の「朝鮮半島が属国だった」
という捏造を疑うという発想は、
古代人からつい最近まで全くない。
本居宣長ほどの学者ですらない。
外交から刺激がなければ
「朝鮮半島が属国だった」意識が増幅され、
読めば解る日本書紀に書いてある矛盾に気づかない。
日本書紀に書いてあることはウソで、
読む価値のないものかというとそうではなく、
学者は、書いてあることを、
「こういう事実の反映だろう」
「こういう事実がこういう説話になったんだ」と
原資料と照らし合わせて読み解く。
それがなされ始めたのは、ほんの10〜20年の間であり、
専門的な知恵を持つ学者は非常に少ない。
この知識を共有できるのは、100人ほどしかいない。
古代史をやる立派な学者は、象牙の塔に閉じこもって、
殆ど 本を書かない。論文も殆ど書かない。
新書などを書く学者は、世間受けすることばかり書いていると見做される。
近代以降、例えば、平安時代の日記「古記録」を
いちばんを読み解ける人の 記録がないという状況。
戦後、しばらく穏やかな時代があったが、
書店に行けば、嫌韓本のような出鱈目な歴史が書いてある
トンデモ本が並ぶような「洗脳」時代になっている。
安倍政権のもとで、実学、ビジネス優先で、
国立大学から人文科学、社会科学系の学部をなくせ、
というような文科省の政策がある。
しかし、この数年で、
本格的なアカデミシャンの著書、
呉座勇一氏の『応仁の乱』がベストセラーになり、
倉本一宏氏の『蘇我氏』も非常に売れている。
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倉本一宏教授のお話を聞く 〜日本書紀は権力の正統性を物語るために捏造された公文書
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