*【日本の戦争麻薬ビジネス①】
[麻薬で戦費を稼いだ日本]と[加計⇆Tu博士⇆オウム]のつながり
*【日本の戦争麻薬ビジネス②】
オウム薬物ビジネスを隠す人々 (日本と台湾のCIA傀儡たち)
●日本軍の「毒化」
“山東省”の夥しいアヘン被害
抗日よりも共産党の掃討を優先するという政策に固執していた蒋介石。
これに内戦停止・抗日戦などを要求する張学良(1928年爆殺された張作霖の長男)らが
蒋介石を監禁するという事件が起きた(1936年12月 西南事件)。
共産党・周恩来らの仲介により蒋介石を釈放。
この事件を契機に第2次国共合作によって、
1937年、抗日戦争が本格化した。
抗日戦争が勃発してから、占領地の麻薬による「毒化」が全面的に始まった。
日本軍はアヘンの栽培を占領地住民に強要し、
麻薬製造工場を特設しヘロインやモルヒネなどの麻薬を製造するとともに、
国民党支配地や中国共産党の抗日根拠地の住民に大量の吸引用麻薬を流したのである。
元より、このやり方は、敵の弱体化のための「毒化政策」というよりも、
日本が日清戦争後の植民地台湾で敷いた「アヘン漸禁政策」以来 味をしめたもので、
麻薬交易や徴税を財源にする「麻薬利権」の拡大化であった。
山西省は、華北で最も被害が深刻だった。
麻薬吸飲者は20万人を超え、華北の吸飲者総数の50%を占めた。
日本軍は1937年11月に山西に侵入し、
山西省各地の占領地と鉄道の沿線でアヘンの栽培を始めた。
日本軍は1940年に「春耕弁法」を制定。↓
鉄道沿線10里内での栽培をアヘンと綿花に限定、五穀の栽培を禁止した。(1940年新華日報)
山西省太谷県だけで1942年のアヘン栽培面積は400ヘクタールにも達した。
日本軍の「毒化政策」は抗日根拠地住民の健康をひどく害したばかりでなく、
社会秩序と農村経済に深刻な影響を与えた。
住民の健康と根拠地の正常な経済・社会秩序を守るため、
太行山脈の抗日根拠地は以下のような措置を講じて麻薬を取り締まった。
国境守備機構による監視を強化、外からの麻薬流入を防ぎ、
地方税務局、公安局、工商局、各県政府、その他の政府部門を動員し
地域内での麻薬の流行を防いだ。また宣伝を強化、麻薬の取り締まりに全住民を動員した。
しかし、対日戦において蒋介石の協力者の山西省 軍閥・閻錫山の配下の傅作義や、
隣の西安の中国共産党などは、アヘン流通網を抑えて、これを資金源としていた。
また、日本の傀儡 汪兆銘ばかりでなく、
蒋介石もアヘン資金を里見甫から受け取っていた。
「アヘン王」の異名を持つ上海「里見機関」の里見甫は、
甘粕らと共に諜報・宣伝・宣撫活動を行い、
満洲国通信社(電通の前身)の社長に就任するなどの経験により、
中国の地下組織から関東軍まで太く幅広い人脈と、抜群の中国語力を併せ持つ。
1937年11月上海入りした里見は、その才覚が見込まれ、
特務資金調達のための阿片売買を依頼される。
1938年3月、阿片売買のためにの「宏済善堂」の社長として、
「昭和通商」や、中国の地下組織「青幇」や「紅幇」などとも連携し、
1939年、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立した。
「宏済善堂」は三井物産と興亜院の主導で設置され、同じく、
「昭和通商」も三井物産・三菱商事・大倉商事が共同出資して設立された商社で
実態は陸軍の特務機関であった。
里見は、ペルシャ産や蒙古産の阿片の売買によって得た莫大な利益を関東軍の戦費に充て、
一部は日本の傀儡であった汪兆銘政権に回した。
また、里見機関は、関東軍が極秘に生産していた満州産阿片や、
日本軍が生産していた海南島産阿片も取り扱っている。
里見がアヘン密売を通じて築いた〈地下人脈〉は、次のような面々だ。
裏社会の人間もいれば、表社会の人間もいる。〜〜
〈裏〉
青幇の杜月笙・盛文頤、笹川良一、児玉誉士夫、
吉田裕彦(児玉機関 副機関長)、岩田幸雄(岩田機関)、許斐氏利、
阪田誠盛(阪田機関)、清水行之助。
(表〉
関東軍参謀長であった東條英機
満州国総務庁次長であった岸信介・古海忠之(古海は後に里見の葬儀委員長を務めた)
満州国民政部禁煙総局長であった難波経一
満州国産業部鉱工司長であった椎名悦三郎
岸信介の実弟であり当時鉄道省から上海の華中鉄道設立のために出向していた佐藤栄作
興亜院蒙疆連絡部経済課長であった大平正芳
興亜院華北連絡部書記官であった愛知揆一
興亜院華中連絡部書記官であった長沼弘毅
海南島・厚生公司東京事務所責任者であった高畠義彦
●終戦後も軍命で戦った”山西省”残留日本兵❗️
兵士を売った「白団」の罪とは⁉️
○日本軍 山西省残留兵「蟻の兵隊」の悲劇
実は、第二次世界対戦後も、
蒋介石から支援要請をうけた日本軍将校たちの命令で、
秘密裏に中国国民党軍(国軍)に編入され、
〈終戦後も4年間〉にわたり中国共産党軍と戦った日本兵がいた。
“日本軍山西省残留兵”〜北支派遣軍「第1軍」の59000名のうち約2600名。
中国内戦で共産党軍と戦い、
長い抑留生活を経て生き残り帰国した彼らは、
逃亡兵として扱われることになる。
彼らの悲惨な物語は『蟻の兵隊』というドキュメンタリーになっている。
中華民国の山西省で、北伐の晋系(山西派)の閻錫山が率いる軍を支援する
日本人の反共軍となった彼らは上官の命令で
戦争終結後も残留兵として戦ったわけだが、
日本政府がこれを軍命による残留と認めると、
これは、ポツダム宣言に定める日本軍の武装解除に違反することになるので、
真実は隠さねばならない。
厚生省は、残留兵を「志願兵」とみなして「現地除隊扱い」とし、
原則として恩給等を補償しておらず、
2001年、訴訟も起こされたが最高裁は訴えを棄却している。
北支派遣軍「第1軍」の司令官は、澄田賚四郎(らいしろう)だ。
澄田賚四郎は、戦犯の責任追及を逃れようと、
蒋介石の国民党軍配下の山西省の軍閥・閻錫山(えい しゃくざん)と密約を交わし、
部下を売って部隊を残したまま動乱の中国を逃れ、
1949年2月、帰国した。
残留部隊の総隊長(今村某)は、裏切られたとも知らず
上官の命令を忠実に守って部隊を指揮したのである。
○「白団」を作った高級将校は戦犯を逃れた
そして、澄田より上の支那派遣軍の総司令官は、岡村寧次(やすじ)である。
1946年に蒋介石率いる中国国民党政府によって開かれた
日中戦争の日本軍関係者の戦争犯罪を裁く「南京軍事法廷」で、
岡村を審判したのは「百人斬り競争」の将校に
死刑判決を出した裁判官だったが、岡村は無罪になった。
1949年1月に復員した。
第二次世界大戦および日中戦争後、中国では共産党軍と国民党軍との対立が再燃し、
中国共産党軍はソ連からの軍事援助も受け、
北京、南京、上海などの主要都市を占領、
1949年10月1日に共産党による中華人民共和国が成立した。
蒋介石は、岡村の帰国後すぐに岡村の世話役だった曹士澂を日本に送り、
曹士澂と岡村は密議を重ね、1949年7/25、岡村は蒋介石に公文を打った。
「日本軍官を利用する指示に基づく計画綱領案」〜
そこには、
「中国陸軍の改善及び東亜反共連合軍のため、
優秀な日本軍官を中国に招き、教育や訓練、制度設計に協力させ、
必要に応じて反共作戦に参加させる」と書かれていた。
これが、「白団」を生み出すことになった
支那派遣軍の総司令官・岡村寧次が書いた重要文書である。
白鴻亮こと富田直亮を団長とする「白団」と呼ばれた義勇兵軍事顧問団だ。
「白団」は、1949年〜1969年までの20年間存在した。
A】「白団」計画の首謀者は、旧日本軍将校
・岡村寧次 (元支那派遣軍の総司令官。計画の総元締め)
・澄田賚四郎 (元第1軍司令官。募集の責任者) *閻錫山に協力し戦犯を逃れた
・根本博 (元北支那方面軍の司令官)
・児玉誉士夫 (右翼)
・山岡道武 (元第1軍参謀長) *蒋介石に協力し戦犯を逃れた
日本から次のような反共義勇軍を台湾に送られた。
・49年4/29 右翼学生で組織した「海外同胞引揚救護学生同盟」38名
・49年6月 同じく学生同盟員40名 +中島飛行機の技術者8名
B】「白団」首謀者の手下たち
・十川次郎(元第5軍司令官・中将)
・及川古四郎(元海軍大将・海軍大学校校長)
彼らが忠実な部下としてが協力した。
A】B】の参謀らは49年9/10 軍事顧問団「白団」を結成した。
陸軍元高級将校と国民政府軍の将校ら16名が謀議を開き決定。
C】白団の支援組織「冨士倶楽部」を結成
自衛隊(警察予備隊)部外秘の軍事資料など戦史・戦略・戦術の資料収集。
GHQ参謀第2部(G2)の下で反共に備える再軍備計画を
研究していた「冨士倶楽部」の首謀者は〜
・服部卓四郎(元中将・陸軍参謀本部作戦課長)
・西浦進(元支那派遣軍総司令部参謀)
・協力〜高山岩男(元京都大学教授 哲学者)
49年秋、「白団」第1陣17名が台湾へ渡った。
日本政府 治安当局もGHQも黙認した。
・貨物船の船底に元軍人らの「軍事顧問団」を乗せ横浜を出港。
・団長・富田直亮と荒竹国光、杉田俊三の3名は
GHQ情報部を装って、飛行機で香港経由で台湾入り。
D】49年8月24日「海烈号事件」が発生
横浜港に入港した中国船海烈号から5億円にのぼる禁制品が見つかった事件である。
調べによると、被疑者は、
日本側が合計6名〜
・三上卓 (元海軍中尉。5・15事件の中心人物)
・阪田誠盛 (満州事変から支那通として関東軍に協力「坂田機関」極東経済研究所の幹事長)
・その他、板垣清、橋本武、志間忠兵衞、大窪謹男が協力
中国側が合計8名〜
・船長、乗組員、商人ら(劉という中国人が逃走)
以上の14名。
犯罪事実の内容は、
阪田誠盛は、部下の板垣から、
稲垣が中国国営の招商局「海烈号」で香港から日本に帰ってくる際に計画している
密輸に協力する者を集めるよう頼まれた。
阪田は知合いの三上に相談し、大窪、志間、運搬関系の橋本に話を持ち込んだ。
橋本がトラックを用意し、8/17、埠頭に行ったところ、
大島工場の埠頭で阪田が、警備の第二公安警備司令部警備員に、
荷物運搬の便宜を図ってもらおうと十万円を渡そうとして発覚した。
陸揚げしようとした物資は〜
・米国製ペニシリン、
・ストレプトマイシン
・サッカリンなど。三百六十五個。価格は20万米ドル。
阪田は、板垣を通じて中国人側から、運動資金として約195万円を受領。
捜査は、アメリカ占領軍(横浜第二公安司令部)が担当。
E】「海烈号」密輸事件は、旧軍人たちの「白団」計画に絡む資金調達であった
岡村寧次をはじめ、山西省残留を企んだ「第1軍」の将校たち、
澄田賚四郎・山岡道武らとつながっていたのである。
*第006回国会 法務委員会 第8号
昭和二十四年十一月十九日(土曜日)
F】阪田誠盛(阪田機関)/岩畔豪雄(登戸研究所)/杜月笙(青幇)/蒋介石 の繋がり
中野学校の設立者でもある「諜報、謀略の科学化」を求めた岩畔豪雄が
米本土攻撃を睨んで作らせた陸軍『登戸研究所』は、
・風船爆弾の開発
・細菌兵器の開発
・スパイ戦用の武器・機材の開発
・偽札づくり
・人体実験(731部隊とも交流)
などを行なっていた。
『登戸研究所』の偽金の散布工作を担ったのが阪田誠盛の「阪田機関」であり、
アメリカを中心とする海外からの援蒋ルート物資を買い占めることによって、
偽造法幣を大量にバラ撒き、偽造法幣で日本が不足しているガソリン等を買い付け、
ただで戦争をする、という一石二鳥を狙った。
阪田は、上海の暗黒街の「青幇」のボス・杜月笙の協力を得て
蒋介石政権と交易を結び、物品購入に偽造紙幣を用いた。
阪田が売る商品の代金は正規の法幣で受け取ることで
マネーロンダリングを行なった。
上海には、「洪門」「青幇」という二大秘密結社があった。
元々は、鎖国していた清時代に、
海上利用を規制する政策(海禁)が取られたことによって、
わざわざ北京から杭州までを結ぶ大運河を使って
江南地方から北京へ米を船で運ぶという困難さを強いられた「水夫たち」が、
互いに助け合うことで結束した集団だった。
彼らは、禅宗系の民間宗教の「羅教」を信仰し、
「相互救済、民族主義、漢民族再興、打倒清朝」を最大不変の目的とした。
北京に米を運んだ後、帰りの空船に禁制品の塩やアヘンを詰め込み、
密売して利益を得ていた。
アヘン戦争後、五港が開港し上海経由で物資が海上輸送されるようになると、
水夫たちは職を失い路頭に迷い、上海に進出していき、
その後も秘密結社として組織を維持したのである。
「青幇」の大親分は、黄金栄、杜月笙、張嘯林の三人であるが、
「青幇」は、蒋介石とは、基本思想(漢民族再興、打倒清朝)を同じくし、
義兄弟の契りを交わして交友を深め、政治的にも協力していた。
蒋介石も自身も「青幇」の一員であったという。
「青幇」は、アヘン、賭博、売春を主な資金源として
上海のブラックマーケットを支配した。
一方「洪門」は、
前記事にも記した 海賊王をルーツとする「鄭成功」を教祖を仰ぎ、
やはり「青幇」と同じく「漢民族再興、打倒清朝」思想をもつ
地下社会を支配する組織である。
G】米軍に飼われる日本と台湾「反共の砦」
「白団」は、やがて米国軍事顧問団に取って代わられ、
1968年12月31日に解散。
そして、米ソ冷戦構造のなかで台湾は、
日本と同じく「反共の砦」となり、
アメリカから多大の軍事支援を受けるが、
蒋介石の「大陸反攻」の目論見はアメリカに阻止された。
日本では「白団」の団員のうち23名は、
自衛隊の枢要な地位についた。
【参考/証言者】
①阿尾博政(あお ひろまさ)
白団顕彰会(阿尾博政 『自衛隊秘密諜報機関―青桐の戦士と呼ばれて』講談社2009年)
http://www.paidan.info
1930年昭和5年富山県生まれ。ー中央大学商学部卒。
ー陸上自衛隊幹部候補生学校入学。富士学校レンジャー課程卒業。
調査学校対心理情報課程卒業(「青桐グループ」「影の軍隊」と呼ばれる)。
第一空挺団本部情報幹部を経て陸上自衛隊幕僚。監部、第二部(情報部)特別勤務班。
※日米安保条約に基づく【日米合同唯一の情報機関】本部はホノルル。中国・台湾・
その他東南アジア地区の情報収集。
1963年、陸上自衛隊幕僚監部第2部(諜報部門)に異動。
日米合同の諜報機関、通称「ムサシ機関」に勤務。
後に日本の自衛隊独自諜報機関「阿尾機関」として独立。
国内外のさまざまな工作活動に従事する。
②山下正男
オーラルヒストリー http://www.ohproject.com/ivlist/03/35.html
1923年(大正12)生まれ。20歳の年1944年(昭和19)召集を受け、
中国山西省で北支那派遣軍第1軍の部隊に編入される。
45年1月陸軍予備士官学校に入学、7月見習士官となるが、間もなく終戦。
山西省において日本軍残留事件の多くの犠牲兵士の一人となった。
この国民党系の軍閥閻錫山と日本軍第1軍の上層部が結託して起した一大陰謀事件は、
多くの日本軍兵士が残留を強制され、閻錫山の軍隊に編入されて共産党軍と戦わされた。
この事件は、ドキュメンタリー映画『蟻の兵隊』に描かれた。
●「白団」は日本のポツダム宣言違反!
[G2(GHQ)+日本軍産複合体]が
日本の再軍備を行い、
そのまま日本の上層部に居座った!
GHQ内部では、諜報活動を行うG2(参謀第2部)とGHQ/SCAP(民政局)の陣営の
権力争いがあった。いわば、タカ派とハト派の内部抗争である。
占領下の日本の平和憲法を制定した当時は民政局が優位であったが、
G2のマッカーサー将軍の情報参謀の「赤狩りのウィロビー」と言われた
チャールズ・ウィロビーのような反共のための再軍備派に力を削がれていった。
中国共産党の力弱め、ソビエトの南下を抑えるために、
日本を再武装し国軍を作って、旧軍の関係者を山西省の義勇軍に送り込み、
この度は傀儡政権ではなく軍閥の閻錫山の力を借りて防波堤にしようと
GHQの軍政下で画策されたのである。
戦争に勝利した国民党側でも日本軍の武装解除を押しとどめ、
対中国共産党との戦いに協力することを望んだのだ。
日本の再軍備派は、GHQ の中でもG2(参謀第2部)と親和したのである。
軍の中の権力構造は、地位よりも軍閥の背後にいるパトロンである財閥
(三井 三菱 住友 大倉 満州重工業 日産など)の財力で決まるが、
この日本の軍産複合体も再軍備を望んでいたのだ。
ところが、GHQ は、戦中の清浦内閣の陸軍大臣で軍縮と軍の近代化を唱え、
天皇の信頼も厚い宇垣一成に白羽の矢を立て、日本の再軍備に担ぎあげた。
「宇垣機関」が設置され、CIA資金や企業からの支援金が投入されると、
戦中は宇垣の軍縮志向を嫌っていた多くの軍産複合体の旧軍内の派閥がその下に付き、
一斉に再軍備の運動を起こした。
右翼の中には、心からの愛国心を持つ者もいるであろうが、
実際には、旧軍の上層部関係者のほとんどが一切の戦争責任を取っていない。
戦後に生き残って、恥も外聞もなく戦前の軍産複合体の利権構造の中に潜り込み、
一族郎党までもその中に組み込もうと画策し、
戦後も対米従属の属国日本の上層部に居座ったのである。
戦後直後の創成期のCIAは、アメリカの正規の諜報機関ではなくて、
イギリスMI6の指導、研修、人事、スキル、ネットワークに依存する組織だった。
大英帝国の影響下からアメリカの正規の諜報機関へと変化していくのは、
マッカーサーのGHQの政策がひとつの契機だった。
因みに、GHQの高級情報将校の通訳を務めた都留重人(つる しげと)は、
ハーバード出の経済学者でリベラル派と言われているが、
米公文書によると、ソ連のエージェントであったことが判っている。
冷戦下の赤狩り(マッカーシズム)の中でかつて米留学中(戦前)
共産主義者であったことなどを告白している。
都留は、スターリンソビエトの利益を最適化する工作を行なっていたのである。
日本の動きの全ては、都留重人というソ連のエージェントによって
情報が筒抜けであったということである。
日本は、次のように表面上は、終戦したことになっていた。
1945年(昭和20年)
8月14日:日本政府が、ポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告。
8月15日:玉音放送により日本の降伏が国民に公表された。
9月2日:日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印。
そして、日本は敗戦し武装解除されたことになっていたが、
1950年(昭和25年)8月10日、
ポツダム宣言の受諾に伴い発するGHQのポツダム政令の一つ「警察予備隊令」により、
武装組織「警察予備隊」が設置され、
1952年(昭和27年)10月15日、「保安隊」に改組され、
1954年「陸上自衛隊」に発展。
それどころか〜
実際は、
戦後も武装解除することなく、シームレスに交戦を行なっていたのだ。
アメリカのGHQ(G2)は、
日本の軍産複合体(旧軍+財閥)と結び、
旧軍を大陸に残し反共を戦わせ、さらに「白団」を結成し反共の兵を大陸に送っていた💢
これこそ、私戦予備罪・私戦陰謀罪では⁉️
彼らは、なぜ再軍備を望むのか?
なぜ、戦争を続けなければならないのか?
その理由は、唸るような「金」だ… ↓
東京湾金塊引揚げ事件 1946年4月6日
〜降伏直前に旧軍が東京湾の越中島海底に隠匿していた、
金塊1,200本・プラチナ塊300本・銀塊5,000㌧という
大量の貴金属が1946年4月6日に米軍によって発見された事件〜
ーーーーーーー
④に、つづく…
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【日本の戦争麻薬ビジネス③】山西省ケシ栽培アヘン密売 / 売られた山西省残留兵 &「白団」
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