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沈壽官〜400年前に拉致された朝鮮人技術者たち/ 安倍晋三も朝鮮系渡来人の系譜

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■日本人はハイブリッド
安倍晋三も朝鮮系渡来人の系譜



佐藤栄作 筆 「默而識之(言葉で表さずとも解っている」

沈寿官の14代目当主は、
佐藤栄作(1901〜75)が死ぬ1年前に沈寿官を訪ねてきて、
佐藤は、
「沈寿官が400年前に日本に渡ってきたのであれば、
 佐藤家も壬辰の乱の後、日本に渡ってき山口に定着した
 韓国系である」ことを
直接告白したと明らかにしました。

沈寿官の家には、佐藤の自筆による
「默而識之(言葉で表さずとも解っているの意)」という書が掲げられています。

韓国の三大紙のひとつ「東亜日報」の
論説委員のキム・チュンシク氏が発刊した著書
『悲しい列島-永遠の異邦人400年の記録』(ヒョヒョン出版)の中で、
壬辰倭乱直後の1598年、日本に連行された陶工の
薩摩焼の沈壽官窯、沈壽官家の14代をインタビューする過程で
明らかにされた内容です。
http://m.pressian.com/m/m_article.html?no=49423

また、岸、安倍家に仕えた家政婦の久保ウメさんは
週刊朝日のインタビューで、安倍晋太郎氏が
「自分は朝鮮人だ」と語っていたことを明かしています。
http://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=80386



沈壽官(ちんじゅかん)15代目

■秀吉の時代に拉致された朝鮮人技術者たち
〜大陸・朝鮮半島へのコンプレックスと
 繰り返される侵略戦争〜


沈壽官の先祖は、今から410年前、豊臣秀吉の時代に、
朝鮮で拉致され日本に連れて来られた 朝鮮人技術者の一人であった。
陶芸技術者、医者、土木測量技師、瓦製造者、
養蜂技術者、櫨蝋生産者、刺繍家…
日本にはかつてない様々な朝鮮の先進技術をもつ者たちが
被虜として連れて来られたが、
殊に沈壽官の薩摩焼は、島津藩にとって大きな外貨稼ぎになった。

初代 沈壽官(沈 当吉)は、1598年、慶長3年、
豊臣秀吉の2度目の朝鮮侵略(慶長の役)で、
薩摩藩 島津義弘に連行され、藩の保護を受けた
「苗代川」(現在は美山)に職能集団集落を形成した人々の
精神的支柱となり、薩摩焼の礎を築いた。

文禄元年、豊臣秀吉は明の征服を目指す東アジア征服構想のもと、
その通り道の朝鮮を侵略したが、
明の援軍や朝鮮水軍、民衆蜂起で劣勢となり停戦した。

慶長2年、文禄の役で征服した朝鮮の植民地の問題で
明と揉めて、慶長の役を開始。再び侵略戦争を行う。
慶長3年、秀吉が死去し撤兵した。
日本では、加藤清正が虎退治で英雄視され、
端午の節句に関連づけられ伝えられている。
一方で、京都の豊国神社など、日本各地に、
彼らの菩提を弔う「耳塚」「鼻塚」が残されている。
朝鮮人に対する虐殺は、耳や鼻を削ぎおとし、
首の代わりに戦利品として持ち帰るという残虐行為を行った。
首を持ち帰るのは困難であったため、
打ち取った証として耳や鼻を削ぎ塩漬けにして持って帰ったのだ。
このような凄まじいジェノサイドは、国内でも行われ、
日本人の中で英雄の物語とされているのでカットされ語られないが、
信長、秀吉というのは、国内でも、女子供、老人無関係に斬る
「撫で斬り」という殲滅を行なっていた。

秀吉の海外侵略は、天下統一のあと、
兵がだぶつき裁兵する必要があることと、
16世紀の日本は銀山の銀で豊富な戦費があったからでもある。
また、日本書紀の神巧皇后が三韓征伐したという神話を拠り所に
失地をもう一度回復するという恣意的な戦意高揚があり、
海外侵略戦争に乗り出した。

実際は、7世紀には、百済+倭国の連合軍が、
唐+新羅の連合軍と戦う「白村江の戦い」で大敗北をしている。
倭国の初めての世界大戦に敗北していたのである。
7世紀に国号を「日本」にして、天皇という号を作り、
「日本書紀」という日本の物語をでっち上げたのである。
〈高天原から降りてきた支配民族が統治する島である〉とした。
実際は、高天原は 大陸、朝鮮半島である。
弥生時代、古墳時代からずっと大陸、朝鮮半島を通じて人が
流入してきている。
日本を純化する虚構のストーリーは、
白村江の戦いの「敗戦レジーム」から生まれてきたものなのだ。

つまり、「白村江の戦い」があり、
豊臣秀吉の朝鮮侵攻「文禄慶長の役」がある。

徳川で日朝国交回復し通商条約を結び、
幕府は朝鮮通信使による穏やかな交流を行う。
水戸学などが触発し明治維新〜
明治政府は、日朝修好条規で強引に開かせ、
日本軍が入っていき朝鮮官軍を虐殺していき、(東学党の乱)
第一次 第二次と日韓協約で外交権を剥奪していった。
1910年、朝鮮を併合。
1919年、大韓民国臨時政府設立。
1937年、皇国臣民の誓詞が発布される。
1945年、第二次世界大戦 日本の敗北。
朝鮮半島は連合軍の管轄に置かれる。

日本の古代、中世、近世、近代の 侵略戦争は、
これらは、朝鮮半島、大陸へのコンプレックスがベースとした
欺瞞から開始されているのである。



沈寿官の「沈」姓は慶尚北道青松郡を本貫(ルーツ)としている。
青松沈氏は、高麗時代の沈洪孚を始祖とし、その曾孫の沈徳符が
朝鮮王朝開国の功により朝鮮王李成桂より青松の地を賜わった。
青松沈氏の系譜からはその後、ハングルの父とも呼ばれる世宗大王の妻、
昭憲皇后を始め国務総理を九人も輩出している。


慶長3年、初代沈壽官は全羅道の 「南原(ナモン)」で拉致された。


15代 沈寿官作

■藩財政に貢献した特異な朝鮮人技術者村・苗白川
〜島津藩の海外貿易の橋渡し役のために
 日本同化を防ぎ朝鮮化政策がとられた〜


沈壽官らが拉致されたのは、慶長の役(慶長3年)。
場所は、全羅道のナモン「南原」。
ここに城を、小西 率いる連合軍第三軍5600人が包囲し落城し、
その時に城を守っていた者らが島津軍に捕られた。

沈家には沈氏大総会というものがあり、
家系図の管理や、先祖供養の祀り
チェサ(祭礼)を差配する仕方を管理する組織がある。
その組織の記録によると、
将軍・李舜臣が、晋州(シンシュウ)で水軍を統制していた。
李舜臣は、「全羅道、中清道(大穀倉地帯)は朝鮮の宝」と言い、
ここを死守し日本軍を入れなかったが、
李舜臣が斬首された後、日本は一挙に全羅道、中清道に攻め入った。

鹿児島の錦絵湾の苗代川(現在の美山)に
朝鮮人技術者集落を築いた。
陶工たちは、火山灰の土壌の 薩摩の土地で、
苦労して陶器に適する土を山野に求めた。

彼らが日本に拉致されてすぐに、内戦勃発。
「関ヶ原の戦い」があった。
沈壽官は、最初は、徳川に付こうとするが、
豊臣方の島津の配下の被虜人である。

徳川は、島津を外様として許しておいた。
これには背景がある。
島津は、秀吉の九州征伐でも領国安堵され、
家康の関ヶ原でも領国安堵されているが、
なぜかというと、島津は、琉球の関係から、
明との関係が深く、
島津の中には〈中国系の武将〉が多くいたからである。
薩摩は、〈明軍を引き入れて秀吉を倒す〉という戦略があった。
薩摩を追い詰めると、明軍が出てきてしまうという事情があった。

沈壽官のその後は、
手厚く保護される時代もあれば、捨て置かれる時代もあった。
当然ながら、沈家は血縁関係もでき、日本化していくが、
島津にとっては、日本化は望ましいことではなかった。
はじめは、沈家の技術を新しい産業資源として使うが、
同時に、彼らが使う朝鮮語を、
朝鮮との貿易に役立てたかったのである。
この薩摩藩の密貿易は、
海外貿易は徳川幕府の鎖国政策とは相反するので、
藩内に朝鮮人居留区を作り、彼ら自身が取り引きをしているのだという
体裁をとることが必要だった。
薩摩藩は、土地柄、台風が多く火山灰土壌で、
比較的、農業には厳しい土地柄で武士の数が多かったので
徳川家のお世話料にも莫大な金がかかり、
どうしても海外に活路を見出すようになったのである。
薩摩は、琉球に侵攻し属国にして、
幕府から許可を得て「琉球通宝」を作るが、
その時に「天保通宝」の偽金も作っていた。
借金踏み倒し、偽金造り、奄美大島の黒糖の搾取した。

苗代川は、朝鮮人の村でありながら、
島津家とは濃密な関係が結ばれていた。
そもそも島津家は、秦氏の系譜の朝鮮系渡来人でもある。
参勤交代の第1番所で2年に一度殿様がやって来る。
大名以下600人のお連れが、村に民泊し、
お世話料は藩から出る。
島津藩が幕府から命じられた公共工事で借金を抱えると、
苗城川の朝鮮人村から銀などの寄付を行っていた記録もある。

その朝鮮人村の日本化が進むと、
島津家は、テコ入れして朝鮮化したのも事実である。
例えば、朝鮮集落の家々は、全員、朝鮮の名字を持っている。
金(キン)、雀(チェ) など。
しかし、当時の1598年渡来当時の朝鮮人は、
日本と一緒で、名字がある人間は全体の25%くらいであり、
士族以外の商人や工民や農民は名字がなかった。
つまり、これは、島津藩が朝鮮名を付けたのである。
集落の人間は、士族と同等の認定を受けた可能性がある。
参勤交代の時も、琉球の者を先頭に、次に、朝鮮の者、
最後に島津の御大が来るという国際色豊かな行列を作る演出をしていた。

同じ時期に、
毛利も、朝鮮陶工を連れてきて萩焼を創始しているし、
鍋島も、朝鮮陶工が有田焼を造っているし、
九州、山口、全国の焼き物の産地というのは、
全部、朝鮮渡来系なのである。
彼らは、一世の代から、日本名を与えられて
日本化政策がとられていた。
たとえば、萩焼では、李勺光という陶工は、
「坂 」という名字を与えられて、坂 高麗左衛門が創始者である。

島津だけが、意図的に、密貿易の利便性のために
日本化を防ぎ、むしろ朝鮮化をした
得意な土地柄なのである。

その密貿易の方法は、
朝鮮からの密航船を「漂民」と呼び、
漂民の傷んだ船を薩摩藩が修理したことにして、
その礼に 薬草の高麗人参などの荷物を渡す。
その高麗人参を、越中富山の薬種商に転売して現金化して、
さらに、越中富山は、北前船から来る北海道の
アイヌの昆布(えびすめ)を、薩摩藩に持ってくる。
さらに、その昆布を朝鮮や琉球経由で、
中国、インドネシアに売っていく…
というように、壮大なスケールの貿易をしていた。

島津藩というのは、外界との接点を持っていたのである。
島津自身が、朝鮮系の武将であった。
元寇を受けて、半島系の武将を 西の防備に付けていたのである。
どの段階で来たかは解らないが、日本人は、全員渡来なのである。
源義光は新羅三郎と称したし、埼玉の高麗神社、新羅郡があり、
福岡の宗像神社も、箱根の駒ケ岳、駒津峰も朝鮮系の名称である。

新羅なのか、高句麗なのか、伽耶なのか、百済なのか、
いずれにしても半島からはじき出された者たちが、
あらゆる時代に、いくつかのルートを通って日本列島に入った。
対馬列島を超え隠岐の島を超え九州に入るルートと、
若狭湾から琵琶湖を通って京都に入ってくるルート、
新潟の勾玉の産地の糸魚川に翡翠を探しに来て信州に入るルート、
安曇野も海の民族で北関東に入っていく。
遡れば、吉野宮 宮滝遺跡などを見ればわかるが、
弥生時代に、朝鮮系の人々が鉄器と稲を持って、
渡来して広がったのだ。
今の天皇は、高句麗系(伽耶)だと言われている。
また、天皇は、桓武天皇の生母は百済王の子孫であると
自ら語られてもいる。
日本人もハイブリッドなのである。

古代人の意識では、高句麗は強大国であった。
今の北朝鮮のあたりと満州を含む高句麗は、
鉱物資源が豊富な豊かな国で、隋や唐も脅かすほどであった。
高句麗が南下して新羅も属国化し、百済も滅ぼされる。
倭の観念では、新羅、百済、伽耶は下に見たいけれど、
高句麗は神の国と言っていた。
しかし、そのことは忘れ去られている。

大陸、朝鮮半島から、革新的な技術がもたらされ、
日本はその恩恵で発展して来たことは間違いない。

400年前に沈壽官がもたらした陶工技術も
1200度を超える熱で土をガラスでコーティングするという技術は、
当時では、ハイテクの最先端であった。
「沈壽官は、土と火で宝石を作る錬金術師だ」と
司馬遼太郎に言わしめ、世界が絶賛する「薩摩焼」を造り出した。
〜「故郷忘れじがたし」司馬遼太郎 著〜

それ以外にも、養蜂の技術者が連行された。
韓国ではサトウキビが取れないので、糖分は蜜(honey)から得る。
また、樟脳の製造技術者である。
椿をチップにして水蒸気で燻蒸して防虫剤を抽出する技術だ。
あるいは、ハゼの木から蝋を作る技術、
あるいは、医学、土木測量…
あらゆる技術者が連れてこられた貴重な戦利品だったのだ。
文禄慶長の役の朝鮮人連行の時の医師は、天皇家に献上されて、
「李家」は、代々、明治まで玉体を診てきたのである。

薩摩藩は、朝鮮出兵の後、琉球侵攻をおこなう。
3000の兵を仕立て、奄美の島を次々滅ぼしていき、
ついに首里城を陥落させる。
琉球は、薩摩の属国であると同時に中国を宗主国とした。
そのような中で薩摩は、北東アジアについて情報通であった。
薩摩にとって、永遠の帝国だと思っていた清が、
アヘン戦争で、いとも簡単に撃破され領土を奪われていく様子を見て、
火元に近かった島津斉彬は、近代化の必要性を感じ、
殖産と強兵を唱えた。
紡績や焼酎(サツマイモを使ったバイオエタノール)の生産、
モールス信号、水力発電、ガス灯、あらゆることをするが、
そして、当時最大のコンビナート建設に着手する。
その時に、薩摩の陶工に、1700度の高温に耐える反射炉の
耐火煉瓦を作れという工業製品のオーダーが来た。
薩摩の産業革命は、海外から技師を呼んだり
先進機械を買ったりすることなく、
中国やオランダなどの書物を翻訳し、
沈壽官などの陶工、鍛冶屋、大工などの在日の工人が取り組んで
幕末期に、実現したことは特別なことである。
職人が、自分たち自身で試行錯誤して得たものだから理解が格別に深い。
これは、日本の他県のみならず、
他国の近代化とは大きく違うところである。

一方で、島津藩は、ヨーロッパに目を向け、
陶工たちに西洋社会で好まれる装飾性の高い室内装飾品を
作ることを求めた。
当時、鍋島藩が、東インド会社との有田焼の貿易で
年10万両も稼いでいたことに島津藩は刺激を受けたのである。
島津は、海洋貿易に長けた藩であったので、
薩摩焼の陶工たちも日本国内の茶道の世界に守られていたわけではなく、
広く海外に通用する作品作りを目指した。

薩摩焼は、慶応3年 1867年のパリ万博では、
徳川幕府とは別に、薩摩琉球国として単独出品しており、
ヨーロッパでは、今まで東インド会社が持って来た
「白地にブルーの染付けの中国陶磁器」とは全く違う
見たことない卵の殻のような白色の「サツマの陶器」に
大いに興味を示した。
磁器とは、石を砕いて作った焼き物で、
陶器とは、土から作った焼き物だが、
ヨーロッパでは、磁器のことを「イマリ」と呼び、
陶器のことを「サツマ」と呼んでいた。
生産量としては、国内生産量の3%しかなかったサツマが、
明治維新の前年のパリ万博に出品するなど、
最も早い世界デビューし、陶器の代名詞「サツマ」となったのである。
磁器の方も、有田もあれば、瀬戸もあれば、美濃もあれば、
九谷もあるが、全部ひとくくりに「イマリ」とカテゴライズされた。
しかも、イマリの「伊万里」は、当時は、「今利」だった。
こうして、サツマは、各国の万博のたびに好評を博していった。

■世界中に愛されたサツマ焼き
〜明治 廃藩置県で主人を失った朝鮮人薩摩陶工の
「Satsuma サツマ」は陶器に代名詞になった〜


明治2年、1869年 廃仏毀釈が起こり、多数の寺が燃され、
薩摩は特に大きな被害を受けた。
明治4年、1871年 廃藩置県。
藩の御用技術者だった薩摩の陶工たちは主人をなくし、
直接の売り先を失うが、ヨーロッパ貿易が彼らを救う。

ヨーロッパ中で「サツマ」陶器として名を馳せていたが、
陶器イコール「サツマ」という概念が世界で定着したことは、
意外な弊害を生み出していく。
日本全国各地の陶器産地の陶工たちは、
本物のサツマを知らないながらサツマ風のものを作り始め
「サツマ」として大量に輸出されていった。
ブランドや産地の商標などはまだ何もない時代のことである。
この現象が、本家本元のサツマのブランド力を落とすことになり、
目利きたちは、明治15年頃には、中国陶器に戻っていった。

この中で、居留地貿易に活路を見い出せず潰れていった
日本の焼き物の産地は沢山ある。
日本の焼き物というのは、
小さな島国の中に、多種多様の陶器を作る産地があった。
しかし、そんな国は世界中に日本だけであったので、
世界では、まさかそれほど多様なものがあるとは理解されなかったので、
日本の各地の陶工たちは、プライドをかなぐり捨てて「サツマ」風を模倣し、
生き残ろうとしたのだ。

例えば、韓国は、
高麗時代には青磁をつくり、朝鮮時代には李朝白磁をつくった。
つまり、王朝によって焼き物のタイプが変わっていった。中国も同じだ。
しかし、日本では、
王朝が変わって焼き物のタイプが変わることはないが、
地域によって焼き物のタイプが変わるという特徴があったのだ。
例えば、文禄慶長の役で日本に連行された陶工たちも、
それぞれ連れていかれた藩の領内で取れた原料しか使えないし、
その藩主の好みに合うものを作った。
萩焼も毛利家が連れて来た朝鮮陶工だし、
有田焼も鍋島藩が連れてきた朝鮮陶工だし、
(有田の色絵付けは、中国 明の陶工が入っている)
唐津も、薩摩も、同じくだが、
封建社会の高い垣根のせいで、
地域によって全く異なった焼き物がつくられた。

■明治 韓国併合
〜在日朝鮮人への差別と偏見が激化
 ゲンコツの雨に打たれて…〜

さて、
明治5年 1872年に台湾出兵。
明治7年 1874年に江華島事件。
明治8年 1875年に江華島条約。

明治になって、
今まで名字を持っていなかった者も
士族と同じく名字を自由に付けられるようになっていた。

朝鮮人に対する差別が激しくなり、
朝鮮名を日本名に変えるものが増えた。
しかし、12代沈壽官は、薩摩藩の財政に貢献した人物であり、
小松帯刀とも同級生であり非常に親しい間柄であったので、
今さら士族と同等などということはどうでも良いことだとして、
名前を変えず、「平民・沈だ」と言った。
明治39年に12代目が亡くなり、17歳の13代目が後を継ぐが、
明治43年(1910年)に韓国併合となる。

13代沈壽官にとっては、
偏見と差別の厳しい時代を迎える。
「内鮮一体、全て天皇の赤子であり皇国の臣民である」と言われながら、
在日朝鮮人は、ゲンコツの雨に打たれるような差別を受けて
生きねばならない時代になっていくのだ。

苗白川の技術者は、周辺の一定期にしか収入のない農民とは違い、
不定期に収入を得られ、陶磁器を作ったり、樟脳を生産したり、
医者であったり、土木測量をやったり、養蜂をしたり、
刺繍をしたり、瓦を焼いたり、その技術を近隣の農民に伝えて栄えていった。
苗白川は近隣の人々から尊敬を集めていたし、産業のセンターだった。
朝鮮の檀君を祀る神社を建て、朝鮮の神舞を舞うムーダンがいた。

しかし、差別が激しさに、
朝鮮人集落だと知られた土地柄の苗白川の陶工は、
素性を隠すため、一気に鹿児島市に移っていった。
彼らは、名前を変え、暮石の名前を削り過去を消し、
苗白川出身であることをひた隠しに隠して生きた。
パクから児玉へ、キンから染浦へ、ハンから桐野へ 、ガから大迫へ
それぞれに名を変えた。

■沈壽官15代目の物語
〜日本のナショナリズムと
 韓国のナショナリズムの狭間から
 広く世界へ漕ぎ出す芸術家〜


沈壽官15代目(1959年鹿児島生まれ)は、
朝鮮人であるということで、
苛烈ないじめを受けた時期があった。
中学2年の頃、上級生から休み時間の毎時間、
殴る蹴るの暴力を受け続けた。

昭和43年(1968年)司馬遼太郎「故郷忘じがたく候」は、
司馬の作品としては唯一存命中の人物を主人公とした物語である。
父の14代目 沈壽官その人であった。
この本が出版されると、今度は在日の仲間から攻撃を受けた。
名前を変え素性を隠して差別を逃れている在日の存在を
殊更に世に語ることが、どれほど迷惑なことか、
子供の就職に差し障る、と怒鳴り込まれることもあった。

15代目は、高校から上京し、早稲田実業に入学し、
IWJ岩上安身と同窓となる。
絶え間ない苛めから逃れ、
都会の人混みに紛れて、息をついたという。
仲間の中に、名を変えて日本に同化した在日朝鮮人のことは
言葉にせずとも、そうと互いに分かったとも言う。
1983年 早稲田大学卒業。

25歳で結婚し、1988年 26歳でイタリアに2年間修行に行った。
沈家の技術は幼い頃から触れてきたが、
自分にまとわりついている400年の歴史を一度剥ぎ取って
ものを作るという根っこの自分の哲学というものをつかみたかった。

その後、韓国の大学院に留学することになった。
沈家を継ぐということはある意味、
ソウルに行くことは、一度は通る修行の道だった。
韓国の一族の繋がりというものの考え方は
400年日本に根付いた者らも、
韓国では青松(チョンソン郡)の沈家の一族として
家族が帰ってきたとまちかまえているほど強い。
しかし、大学入試の面接で、
「400年の日本の垢を流して韓国の魂を腹に入れてくれ」と言われた。
「垢」と言われ、お前には日本の匂いがすると言われたように感じ、
日本にいれば「朝鮮人」と言われ、
韓国では「日本の垢が付いている」と言われるのかとショックを受けた。
そのとき、民族の心、愛国心という
韓国ナショナリズムとポンとぶつかった。
先生の言うことが呑み込めず、試験を受けることを中止し
大学入試が自ら拒絶し、
キムチの瓶の大物成形を学ぶため、実地の作る工房で実学を学んだ。

1999年、39歳で15代目沈壽官を襲名した。
14代目の父は存命で、先代が存命のうちに代が変えられることは
400年間で初めてのことであった。
13代目から2つの遺言があった。
歴代の作品を展示する展示館を作ってほしい。
400年の節目の年(1998年)を祝ってほしい。
これが成されての就任だった。
その後15代目は、世界中の一線で芸術家として活躍し、
日韓友好にも大いに貢献して来た。

■半島有事ふたたび
〜対米従属 独裁国家に向かう日本
 改憲=緊急事態条項を狙う安倍政権の危険性〜


しかし、現在、北朝鮮問題が緊迫し、
再び半島有事が懸念される。
アメリカが行ってきた先例を見てきた北朝鮮が、
核を放棄することはまずあり得ない。
イラクのフセインやリビアのカダフィーのようには
絶対にならないという覚悟を持っている。
北朝鮮は核保有によって、通常兵器が必要なくなり、
10年も課した兵役を縮小し、国威発揚のマスゲームなども廃止し、
軍事費を削減し、産業に振り向け経済も発展している。

沈氏によると、日本の在日の内部は、
朝鮮総連は弱小化し、民団が太っている。
民団から、総連に移ってきて、総連をかき回しているとのこと。

アメリカは、ICBMが本土に届くようになったことで熱り立っている。
当然、ICBMは、翻れば、中国、ロシアにも届く。

日本も韓国もアメリカの属国であるが、
北朝鮮は、体制の保証を求めているのであり、
独立国であることを主張しているのである。
あの誇り高い、高句麗の魂であるとも言える。

日本には、はるかに前からテポドンが届くし、
原発を攻撃されれば壊滅する事態には何も対処してこなかったのに、
何らの防衛的機能もない高価な兵器をアメリカから買わされている。

戦争を煽る安倍政権が、改憲に手を掛けようとしている。
とりわけ、「緊急事態条項」は、危険である。

民主主義が完全に凍結され、国会がなくなる。
法律は国会を通さず、
内閣が政令としてつくることができるようになる。
天皇の勅令でなく、安倍晋三の名で政令を出すのである。
予算権も全部内閣が持つ。
人権、あらゆる報道も集会結社も、国家秩序のために制限する。

ナチスの全権委任法と酷似しており、
首相に無制限に全権が渡る。
日本は、とっくにコントロールされている。
どんなに国益に悖る無茶苦茶なことでも、
日本の官僚機構は、アメリカの軍産複合体の指令を全うする。
平和な時代を生きてきた我々にとって、
本当に聞き的な時代の始まりである。

民主党右派は、本当は自民党で立候補したくても、
自分の地盤に世襲政治家の二世三世がいて、
後援会組織が強かったりすることで、
スペースがなくて民主党から出たという
松下政経塾上がりの政治家などには、かなり多い。
そのような隠れ自民のような政治家がパーティをすると、
自民党の強い連中がパーティ券を買ってやったりもしている。
自民党に手懐けられて子飼いにされているのである。
その隠れ自民の民主党員が、希望にドッと流れたのだ。
彼らはアメリカのジャパンハンドラーの言いなりである。

アメリカに頼らず日本の自衛隊で
自衛すれば良いのではないかというと、
そもそも、スタート地点から、
自衛隊は米軍の下部組織の一部として設計されている。
自衛隊は、米軍のデータリンクから外れると
何ひとつ、兵器を動かすことができない。
飛行機も戦車は、電子情報を分析して初めて動かすことができる。
そもそも、日本には、上位の戦略情報は入らない。
入るのは戦術情報だけになっている。

アメリカと北朝鮮という非対称な関係の中で、
核の脅しを受け続けてきた北朝鮮は、
追い詰められて核をもった。
窮鼠…核を持つ…

日本や韓国がアメリカの戦争を戦うことに
何の意味があるだろう。
日本と朝鮮は良き友人になるべきである。

核の恐ろしさを身をもって知っている日本という国の総理が
核戦争を煽ることなど 絶対に許せない。




ノーベル平和賞のICAN 国際運営委員 川崎哲

核兵器禁止条約(NWC)は、以下の項目に渡って核の取扱いを禁止する。
1 開発(development)
2 実験(testing)
3 製造(production)
4 備蓄(stockpiling)
5 移譲(transfer)
6 使用(use)
7 威嚇としての使用(threat of use)

*[沈壽官 データー]
http://www.chin-jukan.co.jp/history.html
http://chinjukanpottery.com/about
http://www.chin-jukan.co.jp/mindToMind/7
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180103111334.pdf?id=ART0001453451







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