キリスト教の「神話」のベールを取り去り、
「史的イエス」の実像に迫る
上村静氏インタビュー(後半)
イエスキリストの誕生日とされている12月25日、クリスマス。
これは、太陽の誕生日。
ユリウス暦では、この日が冬至である。
ミトラ教では12月25日を元々太陽の誕生日として祝っていた。
クリスマスとは、キリストのミサという意味。
12月25日にクリスマスをすると決めた時、
はじめは協会指導者はお祭り騒ぎを反対した。
けれども、人々は、
ミトラの太陽神の祭りの方に行ってしまい集まって来なかった。
なぜなら、太陽神の祭りの乱痴気騒ぎの方が楽しかったからである。
人集めのために、キリスト教もお祭りをして
キリストのミサを行ったのである。
AC4世紀 キリスト教がローマの国教になり、
AC5世紀 ローマ帝国民は無理やりクリスチャンにさせられた。
太陽信仰や大地母神というのは解りやすい宗教だが、
キリスト教というのは、
神が人間の罪を負ってわざわざ身代わりとなって死んでくれて
復活してくれてありがたいという話だが、
自分はなんの罪を犯したのか?
なぜわざわざ身代わりに神が死んでくれなければならないのか?
解りにくい宗教である。
倫理的であらねばならないので、
馬鹿騒ぎを許さないそもそも根暗な宗教である。
イエスは実在したのか?
聖書の物語は本当なのか?
聖書考古学も、エルサレムもガリラヤ地方も
現在人が住んでいるとこりは発掘できないので、
なかなか進んではいない。
多くの学者が支持する説というものはあるが、
それが真実とは言えないし、
発掘されたモノはあるがその解釈には様々な説がある。
歴史的にイエスの実在を否定することは考えにくい。
証拠は、聖書しかないが、
イエスの生涯が語られた福音書が4つある。
その4つの福音書は、同じような事が書いてあるが細部が違う。
なぜ違うのかというと、異なる伝承に由来しているからあり、
それは伝承があったということであり、
ゼロから誰かが作り出したのであれば辻褄が合っている方が
良いはずである。
1947年に死海文書が発見された。
あるベドウィンの羊飼いの少年が、
羊が洞窟に迷い込み、羊を洞窟から出そうと石を投げた。
すると、パリンと何かが割れる音がした。
中に入ってみると、壺が沢山あって中には古い巻物があった。
これを村にもって帰った。
村人はこれを売ろうと古物商に持って行き、
考古学者や修道士などから研究者の手に渡り、
最終的にあるヘブライ大学の先生によって、
古い写本であるという事が分かった。
その後、周辺が発掘され、
今のところ11の洞窟から800ほどの巻物が発見されている。
死海文書は、紀元前3世紀〜紀元後1世紀のものである。
紀元後1世紀は、ユダヤ人は戦争でローマに負けた時である。
死海文書が発見された場所というのは、
ユダヤ人の砦のひとつであった。
そこがローマ軍に攻められる時に、洞窟に写本を隠したのだ。
大事な写本を隠して後で取りに来ようと思ったけれども来れず、
その後、誰にも発見されないまま、そのまま 2000年間眠っていた。
死海文書のほとんどは羊皮紙。
一部はパピルスである。ごく一部に銅板に書かれたものもある。
基本的に湿気があると腐るので、
エジプトからはよく見つかるが、パレスチナからはあまり見つからない。
死海は、塩分濃度が30%もあり、
生き物が生きられないから死海と呼ばれるが、
海抜マイナス400メートルである。因みにエルサレムが海抜800強。
その死海沿岸の乾燥地方で運良く保存されていた。
死海文書とは、いわゆる旧約の写本と、
今は旧約聖書には入っていないが、
古代では知られていたものであった。
現在、旧約聖書に入っていない、古代からある文書は、
聖書、続編と言われるものもあったのだ。
それは、カソリックでは、第二正典と言われ、
プロテスタントでは、外伝と言われ、
聖書として認めていないものである。
さらに、現代の聖書の続編にも入っていない
偽典と呼ばれる写本も死海文書にはあった。
現在の聖書というのは、
キリスト教が旧約を含めこれが聖書だと決めた時期は
解っているが、
ユダヤ教の側が、聖典(旧約)を決めた時期は
よく解っていない。
通説では、1世紀終わり〜2世紀初めに
ユダヤ教の聖典がこれだと決めたということになっているが、
最近ではもっと後ではないかと言われている。
我々が持っている訳本の聖書の原本の一番古いものは、
死海写本が見つかるまでは、10〜11世紀のものしかなかった。
なぜかというと、ユダヤ人の書物は、
クリスチャンが焼いてしまうからである。
ユダヤ人の書物は、タルムードも写本も古い書物は、
なんでもクリスチャンに焼かれて残っていない。
キリスト教は、ユダヤ教の聖典を
自分たちの聖典の一部にしているくせに燃やしてしまったのである。
キリスト教は、イエスをキリストと信じる。
キリストとは、ヘブライ語(アラム語)でメシア。
メシアの意味は、「油注がれた者」
古代イスラエル(ユダヤ)では、新しく王に即位するときの儀式として
頭にオリーブオイルを注いだ。
つまり、キリストとは、イスラエル(ユダヤ)の王を意味する。
イスラエルの王で有名なのがダビデであるが、
ダビデの家系が王様と継いでいたが、
国が滅び(バビロン捕囚)王朝も滅びた。
しかし、ユダヤ人の中には、いつかまたダビデのような王様が現れて、
イスラエルの王朝がもう一度復活し、
外国の支配下に置かれたユダヤ人を解放してくれる救世主を待ち望んだ。
イエスは、死んだ後に復活したらしいということで、
メシアキリストだと信じるようになった。
イエス=メシアキリスト=イスラエルの王=ダビデの子=神の子という論法で、
イエスは神の子というイメージが出来上がった。
イスラエルでは、王様は、「神の養子」として任命されたとされる。
王様が自分が王様である根拠は、どこにもないので、
王権を下々に説得するための話を作ったのである。(王権神授)
エジプトの王も、メソポタミアの王も、ヨーロッパの王も、
同じように、このような屁理屈をつけたが、
日本の天皇も天照大神の子孫ということになっている。
ユダヤ人にとっては、「神の子」とは「王」の別名でしかなく、
一番はじめにキリスト教を作ったユダヤ教のイエスの弟子たちは、
イスラエルの王という意味でイエスを神の子だと言った。
ところが、
キリスト教は、比較的早くパレスチナから外へ出て行き、
ローマ人、ギリシャ人の世界に入っていく。
ギリシャ人 ローマ人の中にキリスト教を受け入れる人々が出てくるが、
その人たちにとっての「神の子」とは必ずしも「王」ではなく、
文字通り生物学的な意味で「神の子」だった。
なぜなら、ギリシャ神話の世界の神々が人間とまぐわうことは
珍しいことではなかった。
ギリシャ神話では、神の子は何人でもいたので、
ヘレニズムの神々の子と同じようなキャラクターの一人として、
すんなりとイエスが神の子であると受け入れた。
イエスが生物学的な神の子であると考える人々が出てきたので、
これを正当化するために作られたのが「処女懐胎」である。
「初めにイエスはメシアだ」と言う信仰があり、
様々な物語が後から後から作られた。
メシアはダビデの子孫なので、
イエスはダビデの子孫であらねばならないので、
ダビデの生誕地のベツレヘムで
イエスが生まれなければ都合が悪かった。
マタイの福音書では、
〜イエスの親は元々、ベツレヘムに住んでおり、
イエスはベツレヘムで生まれたことになっている。
ヘロデ大王が「本物のユダヤ人の王が生まれてくる」という話をきいて
その周辺の子供達を全員殺そうとしていた。
その話を聞いたイエスの両親は子供を連れてエジプトに逃げる。
ヘロデが死んでその後帰ってくるが、
ヘロデの息子が治めているので、
危険を感じてガリラヤのナザレに住んだ。〜
というストーリーを作ったのである。
ルカの福音書では、
〜イエスの両親は、元々ナザレに住んでいる。
皇帝カエサルが人口調査をするということで、
出身地で登録をしなければならなくなった。
イエスの両親は1000年前の先祖の出身地のベツレヘムに旅に出る。
その時、実はマリアは妊娠しており、
その旅先でイエスを生んだ。その地がベツレヘムだった。〜
というストーリーであった。
つまり、これらは、操作された物語である。
実際の史的イエスは、どうだったか?
史実のイエス①
〜イエスは、ナザレでふつうに両親が男女の営みをして生まれた。
イエスには、兄弟姉妹がいて、6人以上の兄弟の長男だった。
父親が人間であれば、イエスは神の子ではなくなるので、
マリアは処女懐胎したと言われるが、
実際にはたくさん子供を産んでいた。
しかし、父親ヨセフは比較的早く亡くなってしまった。
父の仕事が大工だったのでイエスもあとを継いで大工になり、
家族を養っていた。
しかし、何らかの理由で、家族を捨てて、
ヨルダン川の流域のどこかで洗礼を授けていた
洗礼者ヨハネの元に行ってしまう。
ヨハネの洗礼は、罪の許しを得させる悔い改めであった。
のちのキリスト教会はイエスは無謬だと言うが、
イエスは、家族を捨ててでも許されたいという
何らかの非常に強い罪意識を持っていたはずである。〜
つまり、「神の子」という理解が、
ユダヤ人的な「神の子=イスラエルの王」という感性で、
ベツレヘムに生まれたことにし、
ヘレニズム世界への布教をするためにも、
ギリシャ人的な「神の子=文字どうり神の子」という感性を配慮し
処女から生まれたことにした。
つまり、両方の感性を合わせた物語が作られた。
ユダヤ教の聖典は、旧約聖書であるが、
聖書の解釈をしたもの特に法規的な解説をした
ミシュナーという順聖典があり、
さらにそのミシュナーを解説をしたものがタルムードである。
つまり、聖典の順聖典の順聖典がタルムード。
ユダヤ人のタルムードは、
キリスト教のことはほとんど触れておらず、
イエスのこともほとんど無視している。
イスラム教は、イエスをメシアとは認めていないが、
預言者としては認めている。
しかし、ユダヤ教の中では、イエスはメシアでもなければ、
預言者としても認めていない。
ユダヤ教の膨大なタルムードの記述の中では、
イエスについての記述は、ほんの数行に過ぎないが、
その扱いは、単に「困ったヤツ」というものである。
マタイ福音書では、
〜マリアは精霊によって妊娠したと書かれているが、
ヨセフは、自分には身に覚えがないのにマリアが妊娠し、
婚前にマリアが不貞をはたらいたと思ったので
婚約破棄しようと思ったが、
天使が現れ「精霊による子だから結婚しなさい」と告げられ
イエスが生まれた。〜という話になっているが、根拠はない。
タルムードは、このマタイの記述を突っ込んでいる。
ユダヤ人たちは、「神と人間の女が交わったりするはずはない、
マリアは不貞の女であって、実はローマ兵の愛人がいて、
ローマ人の子供を身籠っていたのであり、
イエスは、非嫡出子として生まれた子供だ」と指摘しているのである。
つまり、タルムードは、
「キリスト教は、自分たちこそが本当のイスラエルなのだ
これが〈新しい契約〉だ言っているが、
大元のイエス自身が半分しかイスラエル人ではない、
ローマ人の血が半分入っているではないか」という指摘である。
ローマ人というのはイスラエルを滅ぼした憎い敵国人であるので、
イエスの実父がローマ兵であったという話は、
イエスを貶めるには恰好のストーリーだが、
そもそもマタイの話を基盤に、突っ込みを入れている話であり、
マタイの話自体がイエスをメシアに仕立て上げようとした作り話なので、
どちらも真実ではない。
イエスはマリアとヨセフという普通のカップルの間にナザレで生まれた
普通の人間であったと考えられる。
この説をはじめに唱えたのは、
キリスト教を批判していた紀元後2世紀のギリシャ人
の[ケルソス]という人物の説であった。
タルムードの中では、
キリスト教のパンとぶどう酒を口にする儀式で、
イエスの肉を食べ血を飲み永遠の命を得るというが、
ということは、イエスは、キリスト教徒の糞尿の中にいる、
などというような記述がある。
つまり、イエスの肉を食い血を飲んだところで
永遠の命など得られないのだと、
キリスト教の中心的な儀礼や救済論を全否定している。
紀元後2世紀のキリスト教というのは、新興宗教で、
現代の日本で言うなら、オウム真理教のように、
ギリシャ人からもローマ人からも一般住民から
非常に気色悪がられ嫌われていた。
つまり、全くのカルトの邪教として毛嫌いされていたのである。
キリスト教は2〜3世紀には、相当迫害されていた。
イエスの史実②
〜イエスは、強い罪意識をもって洗礼者ヨハネから洗礼を受けたが、
それには満足していれば、ヨハネの弟子として活動するか、
ナザレに帰り大工をしていただろうが、どちらもしないで、
独自の活動を始めた。
ヨハネはヨルダン川で人々を待っているが、イエスは自ら村々に行って
村の中の貧しい人や、病んだ人や、
罪人とレッテルを貼られ差別されている人のところに行って
共に飯を食い、仲間として接した。
イエスの奇跡物語は、自然科学の法則は今も昔も同じであるので、
イエスを偉大に見せようとする作り話であるが、
らい病患者など「病んでいる人々と接すること」、
穢れている職業とみなされた売春婦、皮なめし業の人など
「罪人として蔑まれた人々と接すること」が、
イエスの活動の核だったと言える。
差別されている人々を慰め、同時に差別する人々に問いかける
という活動をしていたのがイエスであった。
イエスは、罪人とレッテルを貼られている人に、
罪はない、罪は許されるということを宣言して歩いていた。
イエスは、罪の赦しを求めてヨハネのところに行ったが、
洗礼を受けたから罪を許されるとは考えられなかった。
人間は罪なしには生きられないけれども、
同時に、何ということはなしに許されて生きられるものだ
と人間についての理解があった。〜
岩上
「キリスト教とユダヤ教の話なのに、
突然、仏教の話をするのは見当違いもいいところかもしれませんが、
(略)本当に、イエスとブッダのストーリーって似てますね。」
上村
「そう思いますね。
人間って何者なの?ということを
よくよく突き詰めて考えていくと、
みんな同じようなところに行き着くって
ことなんだろうと思います。」
「自分の身分であるとか、
自分が何をやっているとか、何かができるとか、
そういう見せかけの部分にしがみつくことによって、
自分を肯定しようとする人達からすると、
イエスやブッダの活動は、
目に見える身分や能力を脅かすような存在に見えてくるんです。
だから、邪魔になってくる。
だけど、本当は裸の人間になってみれば、
人間はみんな変わらないという当たり前なことに気づく。
人間というのは一人では生きられない。
生かされてある。
ひとりで生まれてこないし、
ひとりで生きられない、周りに人がいないと生きられない。
自然がないと生きていけない。当たり前ですよね。
人間は生かされてある、というのが先にある。
それが先にあって、
何ができるからどうやって生きようかという問題が出てくる。
だけど、自分の身分や能力に頼って生きる人は、
自分が生かされてあるという当たり前の事実を見失って
自分がひとりで頑張って生きている、
自分が頑張っているから生きられる、という思い込みにしがみつくし、
それで、成功していると思い上がっていくということになるんですね。
そういう人が、逆に、上手くいかない人のことを馬鹿にする、差別する、
ということなんだろうと思います。」
岩上
「なるほど、今、〈身分〉ということと、
〈能力〉ということを並列で仰いました。(略)
現代社会は、身分による差別は、撤廃していった。
平等だけれども自由競争の社会だから、能力差というのは厳然としてある。
能力差は徹底するべきだ。
つまり、優れた者には報酬をと。怠けている者には報酬はなくていいんだ、
というのが、ここ数十年、特に強化されてきた。
勝ち組、負け組…と。
今日、これは肯定されている最大のイデオロギーかもしれない。
これも、イエスの実践した考えの生き方では
間違いだということなんですね?」
上村
「そうです。」
人間の存在は、ある意味でひとりひとり違う。
けれども、生きているということ自体は変わらない。
それはみんな同じである。
そしてみんな、時が来るまで生き続ける 当たり前の権利がある。
その権利は、どういう能力があるかないかには、
全く無関係にその権利は認められなきゃいけない。
これ、現代的な言い方をしてますけどね。
何故そうなの?というと、
人間存在は生かされている命であり、
その命は与えられた命であるからですね。
だから、無条件に全ての命に存続への権利が認められねばならない。」
「にも関わらず、新自由主義的な現代のイデオロギーでは、
能力がある人は豊かに生きる権利があり、
しかし、無能な人間はこき使われて死んでもしょうがない。
というのは、命に対しての洞察が、尊厳がそもそもない。
そして、想像力がない。
というのは、能力がある人が急に交通事故でもなんでもいいですが、
急に自分が無能な人間になった時に、
自分がバカにしていた人間と同じ扱いを受けるかもしれないという
想像力が全くない。」
岩上
「そういう勝ち組から負け組への転落という
恐怖心や不安感はないわけではないだろうから、
なんでそんなに十分お金があるのに、
まだそれ以上に貪欲なのと。」
上村
「そうです。
勝ち組と言われる人が、自分を肯定する根拠は
相対的な比較の上に成り立つ肯定感なんですね。
比較だから、上にいないと不安。
すごい上にいるように見えるのに、
すごい金持ちに見えてもいる落ちるか解らない、
そういう不安があるから、もっともっと上でいようとする
ある意味すごい疲れる人生なんですけど。
そういう価値観の中で生きるんですね。」
「これをどうやったら止められるのかというと、
人間の存在は元々、肯定されている 。
居る、っていうことだけで、すでに肯定されている。
僕は、絶対根拠、という言い方をするんですが、
人間の命は、最初から絶対根拠をもって肯定されている。
そのことに気づけば、別に他人と比較して
上か下かじゃなくて、あなたと私は違う人間、
与えられた命を十全にお互いに幸せに生きていこうよと思えれば、
上も下も勝ちも負けもないわけですよね。」
岩上
「その絶対根拠というものの保証をしてくれる存在というのが、
神というもので、宗教の始まりなんですかね」
上村
「そうだと思いますね。
それを神と呼ぶ人は呼ぶと。
仏教は神とは呼ばないですね。
仏教も同じことを言っていると思いますが、神を立てないですよね。
神を立てない代わりに、縁起、と言いますね。
縁起とダルマですね。縁起というのは関係性ということですね。
僕は、それを簡単な日本語で言うと、
人間存在は関係性の中で生かされてある命なんだ、と言っています。
キリスト教の用語でいうと、
神によって生かされている、でいいんですが、
神を関係性と言い換えれば、同じことが言えるわけです。」
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上村静 〜イエスキリストの実像に迫る
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