御歳91歳、野中さんが、
安倍の「憲法9条に自衛隊に関する条文を追加する」など
2020年の施行を目指す改憲に対して、
「私のように、戦争に行って死なないで帰って来た人間にとって、
再び戦争になるような道は歩むべきではない
というのが信念だ。
戦争を2度と起こしてはならない」と反対の意を唱えてくれましたね!
こういう方が居てくださることが、
本当にありがたい。
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野中広務
菅野完@noiehoie
そもそも、全ての元凶は、「野中広務亡き後の自由民主党」なのではないか。
2013年4月30日
菅野完 @noiehoie
加藤紘一と野中広務のコンビは、
日青協グループを2回「ペテン」にかけてる。
「50年決議」と「村山談話英文」で。
連中がいまでも談話に必死になるのはこの恨み。
2015年4月16日
戦後70年談話は、
50年談話の時に自民党幹事長だった加藤紘一や
自治大臣だった野中広務が
「太平洋戦争は日本による侵略戦争だったこと」ことを
認めてしまったことへの意趣返しの意味合いが強かった。
それでも認めなければアメリカや中国からの反発が明確なので、
支持者向けに侵略を認めない意思を示すためには
主語を曖昧にするしかなかった。
これ⬇︎10年前の番組で、
野中さんが、「僕の遺言」として語った動画だけど、
全部、まさにこの警告は、イマ目前で現実化していますね。
必見です❗️
①2008年1月1日放送の「まだまだ日本はよふけ謹賀新年SP」
②
③
④〜野中広務の遺言〜
◇ ◇
加藤紘一
2006年8月、加藤紘一氏の実家と事務所が、
東京の右翼団体・大日本同胞社の幹部によって放火され、
全焼した事件もありました。
加藤氏の小泉の靖国参拝に対する批判発言に
反発しての犯行でした。
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菅野 完
2016年4月25日 ·
諸君らが信じるか信じないかにかかわらず、
朝 毎 読のメジャーなメディアで、誰よりも真っ先に、
「日本会議は危ない」と日本会議という四文字を使って、
直接、日本会議を名指しして、その危険性を書き残したのは、
誰あろう、加藤紘一なのだ。
加藤紘一こそ、魚住昭よりも早く、「日本会議は危ないぞ!」と
警鐘を鳴らした人物だということになる。
その加藤紘一が今、病床に臥せっている。
僕は、当然のことながら、『日本会議の研究』
http://amzn.to/1QfsgVN の執筆にあたり、
加藤紘一と会おうとした。
しかし、彼の病状から結局会えなかった。
その加藤紘一が今、死のうとしている。宏池会が死のうとしている。
日本の立憲主義とともに。。。
《続》
夢に加藤紘一が出てきたので、起き抜けながら、昨夜の書き込みを補足。
日本会議についてメディアが取り上げるとき、
「これまであまり触れてこられなかった日本会議」
という言い回しが多様される。
だが、これまで触れ続けてきた人々はいるのだ。
70年代から新右翼界隈の優れたレポートを発表し続けてきた、猪野健治。
主に教科書問題を追いかけ続ける、俵義文。
圧倒的な史料を用いて戦後の右翼を追いかけ続けた、堀幸雄。
戦争責任追及の研究を続ける、上杉聡。
そして、政治家個人を分析することによって
「戦後」をとらえなおそうとした、魚住昭。
これらの偉大なる先達たちは、それぞれ全く違う分野で、
自分の見つけたそれぞれの「不思議なケモノ道」を探り続けていた。
彼らの仕事はみな極めて細密で、他の追随を許さない。
そしてその徹底した仕事ぶりから、彼らはそれぞれ、
自分が見つけたケモノ道をさらに奥深く突き進んでいく。
これ以上もうケモノ道を遡ることができない。。。となった時、
彼らが一様に気づいた存在こそ「日本会議」の存在だ。
彼らが追いかけていたケモノ道は、みな「日本会議」
ー「一群の人々」の巣穴ーにつながっていたのだ。
加藤紘一は逆だった。
加藤紘一は自社さ連立政権を支え続ける権力側の人間として、
山の頂に立っていた。
時折、山の頂に立つ加藤紘一の足元にかじりつく、
奇妙なケモノがいる。
このケモノは、加藤の足を噛み、野中広務の首に食らいつき、
河野洋平の腸をえぐり、古賀誠の耳を噛みちぎり。。。と、
山の頂にいる当時の自民党有力者たちを次々と襲撃してきた。
山の頂で権力を支えている加藤は、山の裾野の景色が良く見えた。
このケモノがどこからやってくるのか?
と裾野を見渡した時、加藤はこの不思議なケモノが、
「日本会議」ー「一群の人々」の巣穴ーからやってくることに気づいた。
魚住、俵、上杉、堀、猪野などの先達たちは、山の下から。
加藤紘一は、山の上から。
それぞれ同じ巣穴を見つけた。
そして、立場も興味もキャリアも思想も全く違うこれらの人々は、
「危ない!この巣穴に住むケモノは、危険だ!!」と大声をあげた。
その声はむなしく響くだけだった。
魚住の偉大な仕事は、「週刊誌ネタでしかない」と一蹴され
俵の膨大な仕事は、「どうせ共産党でしょ」と相手にされず
上杉の実直な仕事は、「政治運動の一環でしかない」と取り上げられず
堀の広範囲な仕事は、「学者じゃないから意味がない」と忘却され
猪野の洗練された仕事は、「アングラネタだ」と嘲笑された。
そして、加藤の叫びさえも、
「オワコン政治家の虚しい戯言」と一顧だにされなかった。
僕の仕事は、こうした偉大な先輩たちが残した、
「叫び声」を拾い集めただけに過ぎない。
そして今、誰よりも早く誰よりも克明に、
あのケモノの危険性に気づいた加藤紘一が、今、死のうとしている。
「加藤さん、僕にはあなたの叫び声が聞こえましたよ。
しっかり聞こえましたよ。」
と、報告したかった。
加藤さん、僕の仕事が遅くてすみませんでした。
もっと早くやるべきだった。本当にごめんなさい。
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加藤紘一の遺言<本澤二郎の「日本の風景」(2479)
<安倍・日本会議はいらない>
世の中の戦争には、常にカルトの宗教的指導者が存在している。日本人は「よそ様の事」と思い込んでいたのだが、日本政府もまた、カルトの宗教、天皇を神とあがめる日本会議が主導していた!そのことに元自民党護憲リベラルの加藤紘一が「おかしい」と警鐘を鳴らしていた。その事実をネットで確認することが出来た。「加藤さんの遺言」というのである。さすがは大平正芳の後継者だけあった。護憲リベラルの当然すぎる叫びなのだ。彼は天下人になれなかったが、彼の宰相を阻止した勢力を詳細に分析していたのである。
<民放キー局で警鐘>
多くの国民は、日本会議の恐怖に気付いていない。新聞テレビがその恐怖で報道していない。欧米のジャーナリストは、戦後体制を否定する安倍・日本会議を本国に伝えているが、肝心の日本のメディアは報道しない。
東京新聞と朝日新聞が1度報道したくらいであろう。日本の新聞から日本を研究している隣国の学者も、日本会議を知らない。中国・韓国・北朝鮮・ロシアで日本会議を大きく取り上げた報道を、いまだ確認できていない。
秘密結社なのだ。秘密にしなければならない秘密の組織であることを、内外に誇示している。にもかかわらず、安倍内閣の大半の閣僚は、最初から今まで日本会議メンバーで構成されている。
ネットを使えない古参のジャーナリストも、この怪しげな秘密結社を知らない。そんな場面で、危機感を抱いた加藤が、出演した民放キー局で日本会議政治は危ない、と警鐘乱打していた、というのである。
<政府筋が高く評価>
筆者のネット取材能力はこのレベルだ。どなたか、この加藤の遺言がいつだったのか、どの民放での発言だったのか。教示してもらえないだろうか。
確認した加藤発言は「政府筋」である。紹介者までが抽象的に逃げている。情報提供者も恐怖を抱いている様子をみてとれる。日本会議は恐怖の組織なのか。
元自民党幹事長が、日本会議の存在に警鐘を鳴らした政治的意義は重い。そのために「政府筋」はネットに流したらしい。それをつかまえた筆者である。堂々と個人名で指摘出来ないところに、日本会議の恐怖を印象付けている。
<政府部内は反日本会議が存在>
このことは、政府部内が日本会議一色でないことを裏付けてもいる。
日本会議に抵抗するリベラルなグループが存在している証拠である。安倍内閣の外交防衛など国家主義が突出する部門では、日本会議が主導権を握っているだろう。だが、すべてを掌握はしていない。
思うに、安倍・自公内閣は、野党の無力に助けられている。それでも、既に頂点を極めて、いまは坂を転がり落ちている。
日本会議の目標は「明治に帰れ」である。日本の宗教は、国家神道でなければならない。信教の自由はない。家々の神棚、地域の神社、中央の靖国・伊勢・出雲などで、国民の精神を縛り付けようとするものだ。イスラム過激派も驚くカルトの天皇教であろう。さらに教育勅語、全体を大日本帝国憲法で抑え込む祭政一致の日本に回帰させようという計画のようだ。
平均的な日本人は、間違いなく逃げる。だから蓋をかけている。
生長の家の谷口雅春の狂信的心情を具体化させようというものだ。加藤が驚いて、執念の反撃をした。国民に警鐘を鳴らして、77歳の生涯を終え、大平のもとへと旅立った。
<岸内閣の60年安保闘争は生きていた!>
振り返ると、加藤は学生時代に60年安保闘争を経験している。連日、国会デモに参加した。勉強どころではなかった。A級戦犯内閣の日米安保改定に怒りを爆発させた。いまその孫の政権を日本会議がコントロールして、日本を戦前に引き戻そうとしている。
護憲リベラルの最期の戦いが「日本会議」NOだった。すべての日本国民に叫んで逝った。
<安倍の弔意・弔問なしで明白>
加藤は、安倍の後見人である森喜朗内閣打倒に立ち上がった。神がかりの政権に危機感を抱いての決起だった。安倍はそのころ、まだ自民党の小僧っ子でしかなかった。安倍が注目を集めるようになったのは、小泉内閣からである。
小泉が破格の人事を強行してからだ。自民党幹事長の大先輩である。相応の弔意、弔問に駆けつける場面だが、安倍はそうしなかった。このことからも、安倍のカルトの政治思想と加藤の護憲リベラルは水と油であることを証明している。歴史を逆転させている安倍・自公内閣の正体を暴いている!
2016年9月12日記(政治評論家・日本記者クラブ会員)
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野中広務さんの存在の有り難さ❗️
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