日本は、国家の主権としての戦争を行えないが、
アメリカの指揮権の元では、戦争を行える。
指揮権密約でそうなっている。
占領終結直後の1952年7月23日と、1954年2月8日の2度、
吉田茂が、極東米軍の司令官と口頭でその密約を結んでいることは、
米公文書で明らかになっている。
しかし、憲法からも、
それは、ある程度読み取れる。
憲法にも「落とし穴がある」と思うのだが、
どうだろう?
マッカーサーノートには、
憲法の9条と前文にリンクする原案がある。
"War as a sovereign right of the nation is abolished.
国家の主権としての戦争は廃止される。"
"It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection.
日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に信頼する。"
"Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security.
日本は、紛争解決の手段としての戦争、
のみならず自国の安全を維持する手段としての戦争も放棄する。"
◆マッカーサーノートと日本国憲法・前文
マッカーサーノートによると、
日本は、〈the higher ideals which are now stirring the world
今や世界を動かしつつある崇高な理想〉に
〈relies upon 信頼する、依存する〉のだそうだ。
かつて日本の臣民は、
〈天皇〉を〈relies upon 信頼する、依存する〉ことにしていたが、
今度は、
〈the higher ideals which are now stirring the world
今や世界を動かしつつある崇高な理想〉を
〈relies upon 信頼する、依存する〉ことにしたのだ。
「世界を動かしつつある崇高な理想」とは、何だろう?
これを信念とするのは、構わない。
しかし、枢軸国ドイツ、イタリア、日本に勝利した連合国の、
その代表としてのアメリカの「崇高な理想」な理想に
「信頼する、依存する」のだとしたら、どうだろう?
いずれにしても、「天皇」の代わりに、
またもや、何者かに〈信頼し依存する〉というのなら、
再び、カルトに嵌っていると言わざるを得ない。
これは、
日本国憲法の前文に反映されている。
We, the Japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship, and we have determined to preserve our security and existence, we have determined to preserve our security and existence,
trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.
日本国民は、恒久の平和を念願し、
人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を保持しようと決意した。
「平和を愛する世界の人々の公正と信義」という概念は、
素晴らしいものだけれど、
現実の世界では、
「平和を愛する世界の人々の公正と信義」は、
蔑ろにされている。
「人間相互の関係を支配する崇高な理想」と決めつけているが、
現実には、「崇高な理想」に「人間相互の関係を支配」されていない。
現実には、むしろ、
「暴力」が「人間相互の関係を支配」している一面があることを
無視できない。
もしも、暴力に晒されている人々を無視するなら、
自分さえ良ければいいという、
「利己的な理想」の信者という事になるだろう。
◆マッカーサーノートと日本国憲法・9条
また、マッカーサーノートにあるように、
日本は、「その防衛と保護」を、
世界を動かしつつある崇高な理想を
「信頼して依存する」ということが、
憲法9条に反映している。
日本は、
〈war as a sovereign right of the nation
国家の主権としての戦争 〉は放棄しているが、
日本が「信頼し依存している」
世界を動かしつつある崇高な理想のための戦争は、
行うことができることになる。
これが9条の「落とし穴」なのかもしれない。
英語の日本国憲法 第9条は、
私たちが知る日本語の日本国憲法とは、かなリニュワンスが違う。
Article 9.
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国家の主権としての戦争(元訳/国権の発動たる戦争)と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
⑵In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.
⑵前項の目的を達するため、陸海空軍、そればかりでなく、その他の戦争の潜在的能力(元訳/その他の戦力)は、これを保持しない。国家の交戦権(元訳/国の交戦権)は、これを認めない。
◆日本国憲法は平和憲法か?
"崇高な理想"のための戦争には加担してもよい?
マッカーサーは、日本だけに交戦権の放棄をさせた。
2度と侵略戦争を起こさせないように、武力の放棄をさせ、
米軍を蓋として置き、反共の砦のために自衛隊を作った。
これが戦後国体の姿である。
今の憲法の前文も9条では、
必ずしも、平和憲法とは言えないものなにかもしれない。
むしろ、世界を動かしつつある崇高な理想を信頼し依存するならば、
〈崇高な理想〉が、欺瞞的な戦争のスローガンに用いられる場合、
カルト宗教に操られるように、
日本は〈崇高な理想〉の名の下に行う戦争に
加担する可能性があるのではないだろうか?
↧
日本国憲法は平和憲法か? 〜"崇高な理想" が人間相互の関係を支配していない現実をどうする?
↧