この道は、いつかきた道…
ああ、そうだよ…
かくて自由は死せり。
なぜ日本人は、戦争への道を歩むことを選択したのか。
これまで"空白"だった道程を浮かび上がらせる第一級の史料を入手した。
治安維持法制定時の司法大臣・小川平吉が創刊した
戦前最大の右派メディア「日本新聞」である。
1925~35年に発行された約3千日分が今回発見された。
発刊当時、言論界は大正デモクラシーの全盛期。
マイナーな存在だった"国家主義者"は、
「日本新聞」を舞台に「デモクラシー=自由主義」への攻撃を開始する。
同志の名簿には、後に総理大臣となる近衛文麿、
右翼の源流と言われる頭山満などの実力者が名を連ねていた。
国内に共産主義の思想が広まることを恐れた人たちが、
日本新聞を支持したのである。
さらに取材を重ねると、
日本新聞は地方の読者に直接働きかける運動を展開していたことも
明らかになってきた。
そして、ロンドン海軍軍縮条約、天皇機関説排撃など、
日本新聞が重視した事件がことごとく、
社会から自由を失わせ軍の台頭を招く契機となっていく。
知られざる日本新聞10年の活動をたどり、
昭和の"裏面史"を浮かび上がらせる。
ああ、そうだよ…
かくて自由は死せり。
なぜ日本人は、戦争への道を歩むことを選択したのか。
これまで"空白"だった道程を浮かび上がらせる第一級の史料を入手した。
治安維持法制定時の司法大臣・小川平吉が創刊した
戦前最大の右派メディア「日本新聞」である。
1925~35年に発行された約3千日分が今回発見された。
発刊当時、言論界は大正デモクラシーの全盛期。
マイナーな存在だった"国家主義者"は、
「日本新聞」を舞台に「デモクラシー=自由主義」への攻撃を開始する。
同志の名簿には、後に総理大臣となる近衛文麿、
右翼の源流と言われる頭山満などの実力者が名を連ねていた。
国内に共産主義の思想が広まることを恐れた人たちが、
日本新聞を支持したのである。
さらに取材を重ねると、
日本新聞は地方の読者に直接働きかける運動を展開していたことも
明らかになってきた。
そして、ロンドン海軍軍縮条約、天皇機関説排撃など、
日本新聞が重視した事件がことごとく、
社会から自由を失わせ軍の台頭を招く契機となっていく。
知られざる日本新聞10年の活動をたどり、
昭和の"裏面史"を浮かび上がらせる。